かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:シュポア ヴァイオリンとハープのための作品集1

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回と次回の2回にわたりまして、シュポアのヴァイオリンとハープのための作品集を取り上げます。

多作家で素晴らしい作品を生み出したシュポアですが、本当に録音が少ないwこの音源もようやく探して見つけたものだったと記憶しています。元音源は忘れてしまったのですが、確かナクソスだったと思います。

やっぱり、こういう音源はナクソスですよね~。困ったときのナクソス頼み?ってやつですかね。なのでぜひともナクソスさんもどんどんハイレゾへと移ってくれると嬉しいのですが・・・・・

さて、シュポアという作曲家はベートーヴェンの作品ではおなじみの音楽家です。第7番や「戦争交響曲」などの初演の指揮を行ったのはシュポアです。つまり彼は古典派の作曲家・・・・・と思いきや、前期ロマン派と言っていいと思います。

ja.wikipedia.org

ここで、ウィキの記述で注目なのが、「夫婦で演奏するために書かれたヴァイオリンとハープのための二重奏曲もある。」という部分なのです。そう、この作品集の大部分を占めるのは、その夫婦で演奏するための作品なのです。ちなみに、シュポアの妻はハーピストでした。そのため、いわゆる「ハープソナタ」が多く書かれています。

それにしても、夫婦でアンサンブルって、素敵ですよね~。現在ではごく当たり前になっている夫婦でのアンサンブル。しかしシュポアが生きた時代は必ずしも女性演奏者が認められていたわけではありません。ということは、この一見するとギャラントな作品たちは実はとてもラディカルな作品であるということが言えるのです。

本当にどの曲も美しく、うっとりしてしまう作品ばかりなのですが、しかし、当時の社会を考えたとき、それは美しいという仮面をかぶった闘争である、と言えるでしょう。つまり、妻が演奏家であり、その妻とアンサンブルを行うということ・・・・・これはもう少し後のシューマンとクララでも同様です。つまり、この作品はそんな美しい旋律とは裏腹に、社会の改革の意思を明確にしている作品だといえるのです。

もちろん、男女のアンサンブルというのは古典派の時代からありました。モーツァルトも姉ナンネルとアンサンブルするための作品を書いています。そう考えると、古典派という時代は決して古臭い時代なのではなく、むしろ社会が変わっていく時代だったといえるでしょう。ベートーヴェンの存在はそんな歴史的必然だったともいえるのです。

シュポアなんて美しいだけじゃないか!とベートーヴェンを「熱烈に」信じる人は言うかもしれません。けれどもベートーヴェンが美しいものを目指さなかったのでしょうか?そんなことはありませんよね。ですから、ベートーヴェン交響曲第7番の指揮をシュポアに任せているんです。それだけのタレントだったわけなのですが、現在の評価はあまりにも低すぎるという気がします。

まあ、それは現代がそれだけ幸せであるという証拠でもありますが・・・・・先人たちが築き上げてきた人権の拡大。その果実を私たちは受け取っているわけなので。

演奏するラングドンやウェブはそんなことを知ってか知らぬか、美しい演奏を私たちに披露します。けれどもどこかさみし気な部分もある作品はそのさみし気な部分を大切に、歌っているのがいいですね~。美しい曲を単に美しく弾くだけならプロならだれでもできると思うんです。大切なのは美しい曲だからこそ、どれだけ自分の「歌」として提示するのか、です。このアルバムで演奏する三人は実に「歌って」います。もっと歌ってもよかったかもしれませんが、それはやりすぎかもしれませんが・・・・・

けれども、本来はこういったサロン的アンサンブル作品は、歌って歌って歌いまくる!というほうがいいような気もします。例えば、私たちが新年会などでカラオケで盛り上がりますが、あれは下手でも歌いまくるからでしょ?室内楽でも同じです。プロという高いレベルでどれだけ「歌いまくる」のか・・・・・こういったサロン的作品だからこそ、重要な気がします。その点では多少評価は下がるんですが、とにかくほかに音源がないwそういった状況では、及第点だと思います。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・シュポア作曲
ヴァイオリンとハープのためのソナタ・コンチェルタンテ ニ長調作品113
ヴァイオリンとハープのためのソナタ ハ短調
ヴァイオリン、チェロとハープのための三重奏曲 ホ短調
ヴァイオリンとハープのためのソナタ 変ロ長調作品16
ソフィー・ラングドン(ヴァイオリン)
ヒュー・ウェブ(ハープ)
スーザン・ドリー(チェロ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:アラウが弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集4

東京の図書館から、府中市立図書館のライブラリをご紹介しています。シリーズで取り上げているクラウディオ・アラウが弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の、今回は第4集を取り上げます。

第10番から第12番までの3曲が収録されていますが、この3曲はそれぞれ独立された作品です。第3集で多少強迫的になった演奏はこの第4集では再びカンタービレするものになっています。

かといってアコーギクは決してつけすぎず、適度な感じで、リズムも重視されています。これがクラシックを演奏することだと、私には思えます。

最近の傾向として、リズムのみを強調したり、あるいはカンタービレすることを拒否したりする演奏が多いんですが、この演奏は実にカンタービレしているので、本当に金太郎あめのごとく、どこを切っても楽しめる演奏です。

それもただの金太郎あめじゃない。ところどころ切ると違った模様が出てきたりもします。そこが面白いんですよね~。アラウが楽譜から何を掬い取っているのか、こちらが想像しつつ聴けることがまた楽しいのです。

だんだん、時期的には「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたあたりに差し掛かるわけですが、その前の作品たちも本当に魅力的。いい演奏は、多くの人が名作と言っている作品以外でもいい作品が埋もれていることを教えてくれるからこそ、名演だといえるのではないでしょうか。

その基準からすれば明らかにこのアラウの演奏は名演だと断言できましょう。この後の中期の作品たちをどう弾くのか、もう今からワクワクしてしまって、もう仕事行きたくない!

・・・・・いや、エネルギーもらったんで、行ってきます。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
ピアノ・ソナタ第10番ト長調作品14-2
ピアノ・ソナタ第11番変ロ長調作品22
ピアノ・ソナタ第12番変イ長調作品26
クラウディオ・アラウ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:アラウが弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集3

東京の図書館から、府中市立図書館のライブラリをご紹介しています。11回シリーズで取り上げているクラウディオ・アラウが弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集、その第3集です。

第3集には第6番から第9番までの4曲が収録されていますが、この第3集でも歌うアラウ・・・・・ではなく、どこか急いでいる印象を受けます。特に第6番から第8番。

今までのカンタービレは一体どこ行ったんだろうって感じなのですが、たとえば、第8番ではアコーギクの差をつけることで表現をしていたり、今までの演奏とは一味違う部分が見受けられます。

こうなると、徹底的に演奏者と対話するしかないんです。アラウ、どうしてなの?と。その強迫性はどこから来るの?と。

作曲年代からして、難聴はまだそれほど深刻ではなく、はつらつとした時代。その溌溂さを表現したいのかなあ、というのが現在の私の答えなのですが、時間とともに変わるかもしれません。何せ、こういう変化はじっくりと腰を据えていないとなかなか掬い取ることは難しいので・・・・・

ただ、第8番「悲愴」の第2楽章はじっくり聞かせますし、第9番はテンポダウンして今度はカンタービレ。この辺りはやはりラテンだからかのかもしれません。自らの気分とかも入っているのかもなあ、とか。ま、それもまた楽しいのですけれどね。ここで裏切るか~、と。

もちろん、その裏切りが全く嫌なのではなく、なぜそうなの?と思わず問うてしまう部分こそ、また醍醐味でもあるわけですしね。こういう「やらかし」を楽しむのも、アラウの演奏の魅力なんだろうなと納得しつつ次に移ろうと思います。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
ピアノ・ソナタ第6番ヘ長調作品10-2
ピアノ・ソナタ第7番ニ長調作品10-3
ピアノ・ソナタ第8番ハ短調作品13「悲愴」
ピアノ・ソナタ第9番ホ長調作品14-1
クラウディオ・アラウ(ピアノ)

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コンサート雑感:オフィスアプローズ 蝶々夫人を聴いて

コンサート雑感、今回は令和元年12月15日に聴きに行きました、オフィス・アプローズの「蝶々夫人」を取り上げます。

お気づきかと思いますが、先週取り上げた府中市民第九と日付が一緒。そうなんです、はしごなんです。コンサートのはしごなんてずいぶん久しぶりだなあと思います。多分、フィルハーモニック・コーラスさんと初めて出会った時以来だと思いますから、8年ぶりくらいになると思います。

実は、この公演はオフィス・アプローズの主催であることから、その関係合唱団であるコア・アプラウスのメンバーがだいぶ参加しているんですね。私の合唱団時代の友人も合唱団員として参加しており、そんなことから行くことになったのでした。

つまり、じつは第九よりもこの「蝶々夫人」のほうが先に予定に入っていた、ということなんです。開演時間が17時だったので当然月間シフト予定では公休を希望しましたし、一日開けることにしていました。ですから当然ですが、それ以前の時間は空いている・・・・・・そこになんとか、府中市民第九は滑り込ませることができたのでした。

府中市民第九の終演が15時35分。そこから電車に飛び乗って、京成曳舟まで。今は都営新宿線のダイヤがいいものになっているおかげで、なんとかギリで間に合うことができました・・・・・いや、本来ならダイヤ的には余裕をもって間に合うはずだったのですが、昼ご飯を食べていなかったので・・・・・

京王線から都営新宿線に乗り、都営浅草線経由京成というのはそうそうあるルートではないんですが、このルートだと乗り換えが馬喰横山浅草線だと東日本橋ですが、そこに立ち食いそばがあることは「鉄」の間ではよく知られていることで、そこで昼食を素早く!摂ったせいで、ギリギリになった、というわけでした。

さて、ギリで間に合った「蝶々夫人」。ストーリーは改めて説明するまでもないかとは思いますが、ウィキの説明あたりを掲載しておくことにしましょう。

ja.wikipedia.org

「ソプラノ殺し」と言われるこの作品ですが、今回主役を演じた稲見理恵さんは、そもそもメゾなんです。正確にはソプラノだけれどもメゾの音域まで出る、というほうがいいでしょう。音域という点では、まさに適役だといえるかと思います。

そのせいなのか、表情だとか表現だとかがもう絶品!オケはいわゆる区民ホールである曳舟文化センターに見合うだけの規模の小ささしかなく、室内オケと言ってもいいでしょう。そんな不足分を、主役の歌唱をもって余りあるだけのものにしてしまった「場の支配」はもう素晴らしいとしか言いようがありません。

そもそも、この「蝶々夫人」。現代日本でやる意味があるのか?と言えば、YESです。もちろんです。なぜ私が必ずしも有名とはいいがたいソプラノが主演するオペラを聴きに行ったのかと言えば、一つには主役でありかつてご指導いただいた稲見女史の歌唱に興味があったからですが、もう一つには、このオペラが持つ普遍性にあるんです。

このオペラの普遍性とは、男性が女性を支配すること、そしてさらにはそこに差別もあること、です。決してこれは19世紀長崎という特異な設定ではありません。今回衣装も舞台装置も日本風で統一しましたが、欧州の歌劇場であれば、設定を現代にすることだってありうるものを持っています。もちろん、今回だって現代日本に置き換えても全く違和感なかったと思います。

ちょっと祖国を批判する方向に今回はなりますが、我が国が持つ後進性、そしてその後進性に付け込んで女性を単なる商品としか見ない外国人男性。それは現代日本でもまだまだそこかしこに見られる風景です。特に終戦後には、蝶々夫人のような人は米軍の駐屯地でたくさん見られ、まだまだご存命という人もいます。単に蝶々夫人でなくても、同じ民族間で男性が女性を虐げるなど、日常茶飯事です。だからこそ、戒める法律があるわけです。

だからこそ、このオペラは普遍性を持つんです。ちょうどこの原稿を書いているタイミングで、伊藤詩織女史に対する賠償命令が裁判所から下りました。いまだにこんな事件が起き、しかも男性側を賛美し、女性側を貶める風潮が支配するのがこの国です。だから米軍は・・・・・待ってください、ピンカートンは同じ民族でいくらでもいるでしょ?ということです。

もっと言えば、蝶々夫人は日本という国家そのものだとさえいえます。対米依存の日本という国家を見れば、納得できる部分もあるのではないでしょうか・・・・・そのうえで、再び男女の関係性で見れば、自分を単なる商品としてしか見ていない夫を待つ蝶々夫人。その現実を知ったとき、誇り高い蝶々夫人は自決を選ぶ・・・・・ストーリーとしては確かに当時の日本社会としても荒唐無稽の部分はありますが、しかし「男性による女性の支配」という点では、実にしっかりとした視点をプッチーニは持っていた、ということになります。そしてそれは私の推測では、19世紀の国民国家たるヨーロッパ諸国が抱えていた問題点をあらわにしたとさえいえるのではないでしょうか。それを21世紀日本はいまだ大量に抱えている・・・・・だからこそ、普遍性を持つわけです。

稲見女史としては、蝶々夫人は二度目です。一度目は電子ピアノ演奏で白寿ホールだったと思います。そしてその時の公演も私は見ているんですね。一人の女性として、稲見女史がどんな目を持っているのか、その歌唱にそこかしこに表れているように感じました。切なさ、苦しさ、希望、そして絶望・・・・・今回もその点が絶品!それを支える合唱団も秀逸です。全員アマチュアなのに、その表現力が生き生きとしており、ほとんどアマチュアらしさを感じません。

合唱団はコア・アプラウスのメンバーと地元の人たちによるもの。主に稲見先生の人脈でつながっている人たちですが、その人たちの「この先生なら一肌脱ぐ!」という意思が切々と伝わってくる素晴らしい歌唱なんです。もちろん合唱指導は実は主役の稲見先生がしていますから、それだけ「この人のためならば」という合唱団員と、いいものを作り上げたいという稲見先生との関係性が見え隠れする舞台だったと思います。特に、初めはしずしずとお礼をピンカートンにする親戚たち(合唱団)が、いざキリスト教に改宗したとわかるや否や、ひそひそと非難を始める部分などは、本当にアマチュア?と思いました。

昼間に府中で、そして夕方に曳舟で、ともに素晴らしい合唱が聴けたのは本当に素晴らしい一日だったと思います。もちろん、その他のソリストも素晴らしい!特によかったのはスズキを演じた喜田美紀女史。第二主役のピンカートンよりも出ずっぱりがこのわき役であるスズキです。その蝶々夫人を想う切なさが伝わってくるのは本当に泣けてきました。

来年はどんなオペラが聴けるのか楽しみですし、また、地元で地に足つけてオペラを演じる曳舟地域の人たちがうらやましく思います。

 


聴いて来た演奏会
オフィス・アプローズ オペラ「蝶々夫人
ジャコモ・プッチーニ作曲
オペラ「蝶々夫人
総監督・演出:砂川稔
バタフライ:稲見理恵
ピンカートン:青柳素晴
シャープレス:清水良一
スズキ:喜田美紀
神官1・ヤマドリ:矢田部一弘
ボンゾ:佐藤泰弘
ゴロー:鳴海優一
ケイト:三井真理子
ドローレ:荻野圭汰
神官2:中田清史(特別出演、東京東信用金庫理事長)
アプローズ・オペラ合唱団(合唱指揮:稲見理恵)
工藤俊幸指揮
ウッドランド・ノーツ

令和元(2019)年12月15日、東京墨田、曳舟文化センター大ホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。

神奈川県立図書館所蔵CD:アシュケナージ、パールマン、ハレルが弾く「偉大な芸術家の思い出」

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回はチャイコフスキーがただ一曲だけ残したピアノ三重奏曲である「偉大なる芸術家の思い出」作品50を収録したアルバムをご紹介します。

チャイコフスキー室内楽でも傑作を多く書いていますが、その中でも特に有名なのがこのピアノ三重奏曲ではないでしょうか。けれども私はほかの室内楽作品から入り、この作品が最も遅く触れた作品となっています。

まあ、題名を見ればどんな作品であるかはある程度は予想がつくものです。ただ、聴いて調べるまでは、この作品が故人を偲ぶ作品だとは思いませんでした・・・・・

ja.wikipedia.org

偲ばれているニコライ・ルビンシテインはかの有名は指揮者の弟で、むしろ教育者としてよく知られた人です。モスクワ音楽院を開設したことで名を残した人でした。

ja.wikipedia.org

チャイコフスキーはこの「ルビンシテイン兄弟」と縁が深い人で、自身は音楽を兄アントンが改組したペテルブルク音楽院で学び、教鞭は弟ニコライが設立したモスクワ音楽院でとりました。

ja.wikipedia.org

実はこの二つの音楽院は現在は保革色合いが分かれているのですが、チャイコフスキーはその二つをまたにかけた稀有な作曲家だともいえます。ですがそれだけ、ルビンシテイン兄弟との人脈が深かったことでもありましょう。となると、感受性が強かったチャイコフスキーにとって、この作品は「書かねばならぬ」作品だったのではないかと思います。

最近、「なんとかロス」という言葉が流行りますが、チャイコフスキーにとっては深い傷となる「ニコライロス」だったはずで、その傷をいやすためには、作曲をして自らの気持ちを語り、個人を偲ぶ機会が必要だった、それがこの作品50である、と私は考えます。臨床心理の現場では「ナラティヴ・セラピー」と言い、依存症など神経症関係の治療で行われる方法です(かの「マーシー先生」が参加していた「ミーティング」もその一つです)。

多分、実際に聴いて上記ウィキの説明を読むと、違和感があるのではないでしょうか。え、暗いのは主題だけなんだけど、と。けれどもこれがチャイコフスキーの「ナラティヴ・セラピー」なんだと考えると、違和感が全くないのです。ニコライとはいろんな関係があり、時には協同し、時には相反した(ピアノ協奏曲第1番)間柄でしたが、同じ音楽の道の同志だったことは間違いないでしょう。そんなチャイコフスキーの走馬灯のように頭の中で駆け巡る思い出の数々が、ピョートルにとってかけがえのない時間となり、自己肯定感の高まりへとつながっていく。

そう考えると、全く不自然な点がない作品です。悲しいのだけれど、けれどもそれだけじゃない複雑な心境。喪失感と同時に湧き上がる幸福・・・・・哀愁。見事な作品です。

そんな作品を演奏するのは、これまた当代きってのソリストたち。ピアノはアシュケナージ。ヴァイオリンはパールマン、そしてチェロはハレル。特にパールマンは通常ほかの二人とは違うレーベルだったはずで、その三人がそろうのは珍しいことでもあります。けれどもその当代きっての三人がそろうと、この複雑な心境を描いた作品が見事に一つのストーリーに結実し、チャイコフスキーだけではなく、同じように複雑に傷ついている人の「ナラティヴ・セラピー」となるのですから不思議です。実際、この原稿を書いているときに私は知り合いを二人亡くしており、うち一人は親戚です。本来だと私もどーっと涙が出てくるところなのですが、それがじんわりと湧き上がってくる感じになっています。

多くの人があまり感じないんですが、親しい人を無くすことは傷つき体験なのです。その傷をどのように自ら癒していくか・・・・・人生の半分はその連続ではないかと思います。特に私も年を取るにつれて親しい人が亡くなっていきますから、喪失体験も相当です。すでに母を亡くしていますしね・・・・・あの喪失体験は私の人生を変えるものでした。弱いものにとかく強い気持ちをもったチャイコフスキーにとって、ニコライの死は強い喪失体験だったはずで、そのナラティヴ・セラピーであるこの作品は、またピアノに高い演奏技術が要求されるだけ、ソリストもそれなりに構えて演奏する必要があるのかもしれませんが、それをみじんも感じさせないんです、この演奏。明るい部分はむしろ颯爽としていますし、さすがこの三人だよなあと思います。

あるいは、その高い演奏技術の要求こそ、チャイコフスキーが示した「偉大な芸術家」という暗号なのだとすれば、見事に掬い取ったこの演奏は、この三人の感受性の豊かさを、確かに証明するものであるといえましょう。

 


聴いている音源
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲
ピアノ三重奏曲イ短調作品50「偉大な芸術家の思い出」
ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ)
イツァーク・パールマン(ヴァイオリン)
リン・ハレル(チェロ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。

神奈川県立図書館所蔵CD:一柳慧 協奏曲集

令和2年、2020年初の神奈川県立図書館所蔵CDのコーナーは、日本の現代音楽作曲家、一柳慧の協奏曲集を取り上げることから始めます。

今年最初のエントリでもあるこのエントリが一柳というのも、面白いことだなあと思っています。以前、一柳を取り上げていますが、その時はほかの作曲家の作品が混じっている中でだったと思います。

今回はそうではなく、一柳の作品のみ、しかも協奏曲を集めたアルバムということになります。しかもこのアルバム、それぞれの世界初演を収録したものでもあります。

もう一度、一柳をご紹介しておきましょう。神戸生まれの一柳は、その環境から様々な音楽を吸収しており、単に現代音楽と言っても、その顔は様々なです。

ja.wikipedia.org

例えば、このアルバムの作品たちで説明すれば、まず第1曲目の「ピアノ協奏曲第4番」は「JAZZ」と名付けられた作品で、初演はジャズピアニストである山下洋輔が担当しました。ジャジーというよりはむしろジャズと現代音楽の融合的な作品で、山下がクラシック作品では得意とするガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」ほどのジャジーな感じはありません。むしろそのジャズ的な部分を多分に現代音楽として表現したというほうが正しいだろうと思います。ゆえに、不協和音バリバリなのですが、意外にノれる!横浜開港150周年を記念しての作品ですが、その不思議な世界は、一度聴きますと魅了されます。

第2曲目の「ピアノ協奏曲第5番」は「フィンランド~左手のための」と題されています。まるでラヴェルのようですが、じつは委嘱したのはピアニストの館野泉。2012年の作品ですから、すでに館野氏が左手だけで活動している時期なんです。そして館野氏の活動の本拠がフィンランドであり、一柳もフィンランドとかかわりがあることから名づけられました。が、私にはこの曲、多分にシベリウスの影響が強いんじゃないかという気がするんです。第1楽章が暗く重く始まるのですが、だんだん明快な音色になっていく様子は、まさにフィンランドの苦難の歴史と、館野氏の苦労とが重なっているかのように聴こえるんです。

最後の「マリンバ協奏曲」はマリンバ奏者の種谷睦子による委嘱作品。マリンバの固い音が心地いい!固い音はともすればいやな音になりがちなのですが、マリンバだとそれな不思議とないんです。まるでマリンバの美しさを掬い取ったかのような作品は、絶品!

演奏するは、かつて私が初めて第九を歌った時に指揮してくださいました藤岡幸夫氏。オケは関西フィル。一柳が神戸出身だということでの縁なのかもしれませんが、「ピアノ協奏曲第4番」は神戸ではなく横浜開港150周年記念なのですが・・・・・ですが、神戸と横浜の共通点と言えば、狭い平野部と迫る山、そして同じ海外貿易港として真っ先に新しいものが入ってくるというモダニズムだと思います。そんなモダニズムを一柳的に詰め込んだ作品を、オケもかなり張り切って演奏しているのがわかります。またマリンバ協奏曲では、マリンバ金管のなんと美しいこと!響きあい溶け合うことで、一つの幽玄な世界すら表現しているのは、素晴らしいことです。

関西フィルは、大フィルに隠れてあまり有名ではない側面もありますがかなり堅実なオケだと、聴く範囲では思います。特にこの3曲は藤岡「さん」が振っているので、こりゃあ、ロケンローするな~と思いつつ聴いています。藤岡幸夫という指揮者だからこその、作品の魅力が引き出されたのかもしれません。

いずれにしても、一柳慧も、優れた作品ぞろい。御年80を超えていますが、これからも目が離せない作曲家ですし、また、関西フィルも、関西の方は見逃せないと思いますよ!

 


聴いている音源
一柳 慧作曲
ピアノ協奏曲第4番「JAZZ」(2009)
ピアノ協奏曲第5番「フィンランド」~左手のための(2012)
マリンバ協奏曲(2012)
山下洋輔(ピアノ)
舘野泉(ピアノ)
種谷睦子(マリンバ
藤岡幸夫指揮
関西フィルハーモニー管弦楽団

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年頭に寄せて

皆様、明けまして、おめでとうございます。

今年も、このブログをよろしくお願いいたします。

さて、毎年元旦に特別掲載をして、今年の希望やしたいことを述べていますが、昨年はオーディオのハイレゾ化が目標でもありました。それは一段落したと考えています。とはいえ、いろいろまだ希望はありますが・・・・・

このブログでしたいことを述べるとすれば、折角はてなに移ったのですから、さらなる進化、です。できればはてなで書いていらっしゃるほかのブロガーとの連携だったりができればいいなと思います。

一方で、ささやかながら合唱を再開しています。これは主に障害者支援なのですが、障害者が第九を歌うお手伝いとして合唱隊に参加しています。そんなところからまずは再開ってところです。本格再開まで至るかどうかははっきり言ってわかりませんが、その活動とブログを連携させても行きたいなと思います。

昨年から今年にかけて、スポーツイベントが我が国では目白押しで、音楽はその影響を受けっぱなしですが、そのピークとなるオリンピック・パラリンピック前後でどんな動きがあるのかも、じつは楽しみだったりします。刺激を受けた芸術界がどんな動きを見せるのか、ポジティヴ、ネガティヴどちらの動きも興味深いです。

かつて、オリンピックには芸術という種目があり、日本も参加していた経緯があります。芸術は基本的に競うものではありませんが、そんな歴史からどんな動きがあるのかも気になります。だからこそ、オリンピック・パラリンピック前後の芸術、特にクラシック音楽界の動きは気になります。

さて、私自身で予定しているのは、まず「東京の図書館から」のコーナーは全集ものがずらりと並ぶことになるかと思います。特に府中市立図書館は全集の宝庫でして、ベートーヴェンブラームスシューベルトなどの交響曲の全集には事欠きません。その全集ものを今年はご紹介できる年になるかと思います。

そして、うえで述べた合唱ですが、3月20日に東久留米で障害者との第九があります。私もそこに強制参加という(w)ことになっておりまして、一応有給を取る予定でおります。無事取れまして参加ということになれば、また告知したいなと思います。

またコンサート評も今まで以上に充実させることができたらと思いますが、さすがに私も若くないなあと。このブログを始めたころのようには精力的にはできなくなってきていますが、それでも、素晴らしい演奏をしているアマチュアなどをご紹介することができればと思っています。

今年も、このブログをどうぞごひいきにしていただけると幸いです。

 

 

 

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。