かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

コンサート雑感:オフィスアプローズ 蝶々夫人を聴いて

コンサート雑感、今回は令和元年12月15日に聴きに行きました、オフィス・アプローズの「蝶々夫人」を取り上げます。

お気づきかと思いますが、先週取り上げた府中市民第九と日付が一緒。そうなんです、はしごなんです。コンサートのはしごなんてずいぶん久しぶりだなあと思います。多分、フィルハーモニック・コーラスさんと初めて出会った時以来だと思いますから、8年ぶりくらいになると思います。

実は、この公演はオフィス・アプローズの主催であることから、その関係合唱団であるコア・アプラウスのメンバーがだいぶ参加しているんですね。私の合唱団時代の友人も合唱団員として参加しており、そんなことから行くことになったのでした。

つまり、じつは第九よりもこの「蝶々夫人」のほうが先に予定に入っていた、ということなんです。開演時間が17時だったので当然月間シフト予定では公休を希望しましたし、一日開けることにしていました。ですから当然ですが、それ以前の時間は空いている・・・・・・そこになんとか、府中市民第九は滑り込ませることができたのでした。

府中市民第九の終演が15時35分。そこから電車に飛び乗って、京成曳舟まで。今は都営新宿線のダイヤがいいものになっているおかげで、なんとかギリで間に合うことができました・・・・・いや、本来ならダイヤ的には余裕をもって間に合うはずだったのですが、昼ご飯を食べていなかったので・・・・・

京王線から都営新宿線に乗り、都営浅草線経由京成というのはそうそうあるルートではないんですが、このルートだと乗り換えが馬喰横山浅草線だと東日本橋ですが、そこに立ち食いそばがあることは「鉄」の間ではよく知られていることで、そこで昼食を素早く!摂ったせいで、ギリギリになった、というわけでした。

さて、ギリで間に合った「蝶々夫人」。ストーリーは改めて説明するまでもないかとは思いますが、ウィキの説明あたりを掲載しておくことにしましょう。

ja.wikipedia.org

「ソプラノ殺し」と言われるこの作品ですが、今回主役を演じた稲見理恵さんは、そもそもメゾなんです。正確にはソプラノだけれどもメゾの音域まで出る、というほうがいいでしょう。音域という点では、まさに適役だといえるかと思います。

そのせいなのか、表情だとか表現だとかがもう絶品!オケはいわゆる区民ホールである曳舟文化センターに見合うだけの規模の小ささしかなく、室内オケと言ってもいいでしょう。そんな不足分を、主役の歌唱をもって余りあるだけのものにしてしまった「場の支配」はもう素晴らしいとしか言いようがありません。

そもそも、この「蝶々夫人」。現代日本でやる意味があるのか?と言えば、YESです。もちろんです。なぜ私が必ずしも有名とはいいがたいソプラノが主演するオペラを聴きに行ったのかと言えば、一つには主役でありかつてご指導いただいた稲見女史の歌唱に興味があったからですが、もう一つには、このオペラが持つ普遍性にあるんです。

このオペラの普遍性とは、男性が女性を支配すること、そしてさらにはそこに差別もあること、です。決してこれは19世紀長崎という特異な設定ではありません。今回衣装も舞台装置も日本風で統一しましたが、欧州の歌劇場であれば、設定を現代にすることだってありうるものを持っています。もちろん、今回だって現代日本に置き換えても全く違和感なかったと思います。

ちょっと祖国を批判する方向に今回はなりますが、我が国が持つ後進性、そしてその後進性に付け込んで女性を単なる商品としか見ない外国人男性。それは現代日本でもまだまだそこかしこに見られる風景です。特に終戦後には、蝶々夫人のような人は米軍の駐屯地でたくさん見られ、まだまだご存命という人もいます。単に蝶々夫人でなくても、同じ民族間で男性が女性を虐げるなど、日常茶飯事です。だからこそ、戒める法律があるわけです。

だからこそ、このオペラは普遍性を持つんです。ちょうどこの原稿を書いているタイミングで、伊藤詩織女史に対する賠償命令が裁判所から下りました。いまだにこんな事件が起き、しかも男性側を賛美し、女性側を貶める風潮が支配するのがこの国です。だから米軍は・・・・・待ってください、ピンカートンは同じ民族でいくらでもいるでしょ?ということです。

もっと言えば、蝶々夫人は日本という国家そのものだとさえいえます。対米依存の日本という国家を見れば、納得できる部分もあるのではないでしょうか・・・・・そのうえで、再び男女の関係性で見れば、自分を単なる商品としてしか見ていない夫を待つ蝶々夫人。その現実を知ったとき、誇り高い蝶々夫人は自決を選ぶ・・・・・ストーリーとしては確かに当時の日本社会としても荒唐無稽の部分はありますが、しかし「男性による女性の支配」という点では、実にしっかりとした視点をプッチーニは持っていた、ということになります。そしてそれは私の推測では、19世紀の国民国家たるヨーロッパ諸国が抱えていた問題点をあらわにしたとさえいえるのではないでしょうか。それを21世紀日本はいまだ大量に抱えている・・・・・だからこそ、普遍性を持つわけです。

稲見女史としては、蝶々夫人は二度目です。一度目は電子ピアノ演奏で白寿ホールだったと思います。そしてその時の公演も私は見ているんですね。一人の女性として、稲見女史がどんな目を持っているのか、その歌唱にそこかしこに表れているように感じました。切なさ、苦しさ、希望、そして絶望・・・・・今回もその点が絶品!それを支える合唱団も秀逸です。全員アマチュアなのに、その表現力が生き生きとしており、ほとんどアマチュアらしさを感じません。

合唱団はコア・アプラウスのメンバーと地元の人たちによるもの。主に稲見先生の人脈でつながっている人たちですが、その人たちの「この先生なら一肌脱ぐ!」という意思が切々と伝わってくる素晴らしい歌唱なんです。もちろん合唱指導は実は主役の稲見先生がしていますから、それだけ「この人のためならば」という合唱団員と、いいものを作り上げたいという稲見先生との関係性が見え隠れする舞台だったと思います。特に、初めはしずしずとお礼をピンカートンにする親戚たち(合唱団)が、いざキリスト教に改宗したとわかるや否や、ひそひそと非難を始める部分などは、本当にアマチュア?と思いました。

昼間に府中で、そして夕方に曳舟で、ともに素晴らしい合唱が聴けたのは本当に素晴らしい一日だったと思います。もちろん、その他のソリストも素晴らしい!特によかったのはスズキを演じた喜田美紀女史。第二主役のピンカートンよりも出ずっぱりがこのわき役であるスズキです。その蝶々夫人を想う切なさが伝わってくるのは本当に泣けてきました。

来年はどんなオペラが聴けるのか楽しみですし、また、地元で地に足つけてオペラを演じる曳舟地域の人たちがうらやましく思います。

 


聴いて来た演奏会
オフィス・アプローズ オペラ「蝶々夫人
ジャコモ・プッチーニ作曲
オペラ「蝶々夫人
総監督・演出:砂川稔
バタフライ:稲見理恵
ピンカートン:青柳素晴
シャープレス:清水良一
スズキ:喜田美紀
神官1・ヤマドリ:矢田部一弘
ボンゾ:佐藤泰弘
ゴロー:鳴海優一
ケイト:三井真理子
ドローレ:荻野圭汰
神官2:中田清史(特別出演、東京東信用金庫理事長)
アプローズ・オペラ合唱団(合唱指揮:稲見理恵)
工藤俊幸指揮
ウッドランド・ノーツ

令和元(2019)年12月15日、東京墨田、曳舟文化センター大ホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。