かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

ベートーヴェン ピアノソナタ第31番変イ長調作品110

今日は、ピアノソナタ第31番を取上げます。三楽章形式ですが、もう、そんなことを言うのは陳腐なくらい、完成度の高い曲です。

この曲も探せばびっくり箱がたくさんあります。まず、調性が変イ長調。これは以前ピアノソナタ第12番で取上げましたね。そのときは「死」をテーマにあげましたが、今回は聴いていてそんなものは微塵も感じません。むしろ、自分の自信の表れか、ピアノという楽器を自由自在に操るために、この調性を選んだのではという気がします。

それは、ウィキペディアの「変イ長調」のページの、この文章から見て取れます。

「ピアノでは黒鍵が多くロ長調に似て演奏しやすいところから、ショパンが愛用した。エンハーモニックな転調も自在で斬新な和声を追求している。」

これはあくまでもショパンについて言及しているのですが、第3楽章を聴きますと、そっくりそのままベートーヴェンへ当てはまると思います。

で、その第3楽章は複合二部形式です。通常、二部形式は唱歌で採用される形式です。でも、ここでは採用されています。この楽章には「嘆きの歌」といわれるフレーズがありますが、ベートーヴェンにとって、それは文字通り「歌」と認識していたと考えていいのではないでしょうか。そうでないと、唐突にここで複合二部形式を採用する理由がありません。

しかも、きれいなフーガです。ウィキペディアではフーガの採用についてはネガティヴに捉えていますが、私としてはもっとポジティヴに捉えたいと思います。確かに、フーガというのは前時代的です。しかし、それなら第31番でなぜ三楽章形式を採用したのでしょう?

むしろ、私はフーガという形式に対してベートーヴェンが敬意を持っていて、やっと使えるだけの実力をつけたからこそ、前時代的とさげすまされていたフーガを使ったのではないかと思います。それは、モーツァルトはフーガを宗教曲にしか使っていないという点からも明らかかと思います。これは、ベートーヴェンの「音楽家としての自立」に関する、ひとつの表れなのだと思います。

温故知新。日本にはいい言葉があります。わたしは後期の作品群を聴いていて、この言葉ほどぴったり来る言葉はないと思っています。

これは調べたわけではないですから、あくまでも私の推論に過ぎませんが、この後期のピアノソナタ作品群がなかったら、メンデルスゾーンによってバッハの「マタイ受難曲」の再評価へとつながったか、疑問だと思います。なぜなら、バッハはベートーヴェンの時代にも演奏されており、実際フーガという形式も死んではいなかったからです。バッハの作品自体はかなりのものが忘れさられていましたが、名前と一部の作品は脈々と受け継がれていたのです。

第31番は、そんな背景を持って成立したというのは、頭に入れておいてよいのではないかと思います。

フーガを採用するしかなかったという割には、音楽はさらに孤高へとのぼり、温かみのあるすばらしいものになっています。まずは、素直にそれに耳を傾けましょう。