かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ヘンデル ディッティンゲン・テ・デウム他

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回はヘンデル作曲の「ディッティンゲン・テ・デウム」他のアルバムの御紹介です。元音源はナクソスだったと思います。

誠にナクソスらしいアルバムだなあって思います。何故なら、ディッティンゲン・テ・デウムという作品は、ヘンデルの作品の中でも機会音楽として位置付けられる作品だからです。

げんの クラシック音楽を 聴こう
ヘンデル 『デッティンゲン・テ・デウム』HWV.283
https://ameblo.jp/pastabrightness/entry-11510909821.html

テ・デウム自体が、神を賛美する音楽ではあるんですが、その上で戦勝記念とはどういう事なのでしょうか?それは、その戦いを紐解く必要があるでしょう。

デッティンゲンの戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

この戦い、何かに似ています。私が想起するのは、江戸時代、徳川の治世に対抗して豊臣家が最後の抵抗を示した、大坂夏の陣です。

大坂の陣
大坂夏の陣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3#%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%A4%8F%E3%81%AE%E9%99%A3

大坂城の内堀まで埋め立てられた時点で、豊臣方はかなりきつい状況ではあるんですが、まだ徳川方を包囲殲滅できるだけの陣地はありました。それが「真田丸」だったことが、近年の研究で明らかになりました。ではなぜ負けたのかと言えば、ディッティンゲンと同じような状況で、毛利勢が出城を出て篭城戦から一転、打って出たため包囲殲滅戦は崩壊、そもそも追い詰められていた豊臣方は「大きな包囲網」だった徳川方に滅ぼされることになります。

イギリス・オーストリア連合軍の情況はまさに、真田丸を攻めていた徳川方そっくりなのです。そんな状況からよくぞ逆転できたとなれば、それは奇跡なのです。単に軍事的に優れているとか、そういう人間の努力からは程遠いものです。キリスト教徒であれば「神のご加護」と考えるのが普通でしょう。

デッティンゲン・テ・デウムをよく聴きますと冒頭がとても印象的であることが分かります。その第1曲目は「主よ、我ら御身をたたえ」です。その一節が終わると、休符があってまた同じ歌詞を歌うという構成になっています。しかも、合唱部分は間違いなく長音符。となれば、これは典型的な協調であるわけなんです。

つまり、勝利したことを個人に帰するのではなく、個人を超越したところにある、と考えたわけです。ですからアンセムやオードとかではなく、「テ・デウム」だったと考えていいと思います。

その意味では、このブログもとても参考になるんですが、どうなのかなあって思うところは私にはあります。

歌わない時間
ヘルビヒ『ヘンデル_デッティンゲン・テ・デウム』
http://blog.goo.ne.jp/ariodante/e/44fdfe5e56bc53a6fdc94f035d0cd520

そう、この演奏を評論しているブログが他にもあるんです。確かに端正な演奏なので、このように思うこともあるのでしょう。ただ、私はこの演奏が素晴らしいと思っているからこそ、逆に上記ブログ主がいいという演奏も聴いてみたいと思います。果たして、冒頭をどのように演奏するのか?

ディッティンゲン・テ・デウムは、一番最初の旋律が軍隊の行進を表わすので間違いやすいって思うんですが、その後、合唱が入ったところでなぜ「主よ、我ら御身をたたえ」を強調するのかが大切だと思います。それはカップリングの「テ・デウム」を聴きますと一目瞭然なのです。

カップリングの「テ・デウム」はディッティンゲン・テ・デウムよりさかのぼり、1726年の作曲なんです。そう、バッハがちょうどマタイを作曲している頃です。確かに「主よ、我ら御身をたたえ」を強調してはいますが、単なるくりかえしだけです。長音を使いかつ休符まで入れるなんてことはしていないんです。それでも、神を賛美する作品で通っています。

と言うことは、作曲当時、どれだけ「神のご加護以外、この結果はあり得ない」ということが、社会に広く共有されていたことを意味します。当時ヘンデルはチャペル・ロイヤルの作曲家だったのです。当然、王であるジョージ2世のために演奏家たちも動員できる立場にありました。そして記録にネガティヴなものが残っていないことから、初演は成功したと言っていいでしょう。

つまり、王ジョージ2世ですら、自分の武勲と言うよりは、神のご加護だと感じていることを意味します。その神への賛美を素直に表現しているこの演奏は、実にさわやかで、素晴らしいです。何度も聴いていますとじんわりと感動が押し寄せてきます。

それは、指揮者ヘルビッヒがしっかりとスコアリーディングしているからに他なりません。ナクソスの割には高音部の伸びがいいように聴こえます。私が書き写したクレジットを見れば、ドイツの教会で収録されています。じつはナクソスだからと言ってなかなかこういうことはなくて、それだけこの作品に対する研究がしっかりしていることを意味します。だからこその、印象的な冒頭合唱なのだろうと思います。

まあ、上記ブログ主さんがいう、ファソリスなら、いい演奏をするのは当然なんですけど、でも、ファソリスはナクソスでもケルビーニのレクイエムを録音していますが、ケルビーニとこのヘンデルではまた構造が異なりますので、ひとくくりには言えなんですが、ケルビーニのレクイエムだからこそ、ファソリスのダイナミックな解釈が生きたのではという感じも持っています。

マイ・コレクション:ケルビーニのレクイエム
http://yaplog.jp/yk6974/archive/1020

よくきけば、確かにテ・デウムHWV282はやっつけ仕事的な部分が多々あります。どこかで聴いた旋律も出てきます。でも、デッティンゲン・テ・デウムでは、わずか2週間足らずで書き上げられたとは思えないほど、初めて聴く旋律に溢れて居ます。そこをしっかりと指揮者ヘルビッヒは抑えているということになります。私にとってはだからこそ感動する演奏で、ゆえにファソリスはどのように解釈して、スコアリーディングをしたうえで表現しているのかが気になります。いつか聴けるといいかなって思います。できれば図書館か、ハイレゾであればいいなあって思います。




聴いている音源
オルグ・フリードリヒ・ヘンデル作曲
デッティンゲン・テ・デウム HWV283
テ・デウム イ長調HWV282
ドロシー・ミールズ(ソプラノ)
ウルリケ・アンデルセン(アルト)
マルク・ヴィルデ(テノール
クリス・ディクソン(バス)
アルスフェルト・ヴォーカル・アンサンブル
ヴォルフガング・ヘルビッヒ指揮
コンチェルト・ポラッコ

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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