かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:アーノルド 交響曲全集4

今月のお買いもの、平成26年7月に購入したアーノルドの交響曲全集をシリーズで取り上げていますが、今回は第4集を取り上げます。収録曲は第7番と第8番です。

この二つの交響曲はともに3楽章制を取っており、作曲年代もともに1970年代です(第7番:1973年、第8番:1978年)。そして、今までのともすれば映画音楽ともとれた6つの交響曲とは異なり、完全に20世紀音楽としてそれまでと一線を画しています。

と書いてしまえば、え〜じゃあつまらないの?と思う方もいらっしゃるかと思いますが、決してそんなことはありません。例えば、第7番の第3楽章では、打楽器が沢山出てきます。金属の柱を叩くような音がして、それが印象的です。それはそれで一種のアーノルド独特の諧謔性です。

第8番では、第1楽章の不旋律音形と旋律線がしっかりとした音形とが混在し、それがまるでカオスのように成立しています。混沌であって、でも一つの交響曲として成立する・・・・・それ自体が、アーノルドのメッセージのようにも受け取れます。

何故なら、まさに楽章構成が3楽章であるからです。3という数字自体がキリスト教世界では完全を表わすわけですが、その楽章数の交響曲においてあえてなぜ混沌を表現するのか・・・・・それこそ、アーノルドが第8番で表明していることなのではないかと思います。つまり、自由。

自由は混沌を生み出すからこそ、一人一人が自分を律する必要がある訳ですが、調性もない、それでいてカオスという状況の中で、一つの交響曲として成立するためには、何らかのルールが必要です。それが、急〜緩〜急という、3楽章交響曲の速度構成の古典的な規則です。これはバロック晩期から古典派にかけて、まだ交響曲シンフォニアであって、協奏曲が成立した時代からの遺産ですが、それにアーノルドは愚直に則っています。

それ以外はすべてを取っ払い、第7番そして第8番ではさらに進めて混沌を表現しているわけですが、それが意味するものを音楽の表面だけで判断するのは難しいだろうと思います。はっきりとしたメッセージのない音楽に、それを見つけるのは困難だからです。しかし、全体的な構成に眼を向けてみる時、アーノルドが問うているのは、「自由とは何か」であろうと推測できるのです。

こういった哲学的なことを、ともすれば私たちは見逃しがちです。評論する側も、「哲学的だ」ということで済ませてしまいます。それはそれで仕方のないことかもしれませんが、しかし、それは音楽を聴く喜びを伝えることなのだろうかと、アーノルドのこの二つの交響曲を聴きますと考えてしまいます。

この演奏も今まで同様、また愚直に端正なのですが、それがこの二つの交響曲の魅力を教えてくれています。まあ、こういった作品は変態演奏になり得る筈もないんですが、それでも、しっかりと冷静さを保ち、一方で情熱を内に秘め、演奏されています。アーノルドの交響曲は決して不協和音だけではなく、旋律線がはっきりしたものも多く、その切り替えというか、瞬間瞬間で音楽に引っ張られないことが大切になってきますから、一歩引くことが大切なのです。

勿論それは、どんな作品であっても演奏に於いては重要なファクターなのですが、混在する作品でもまた重要なのです。第九のようなメッセージ性の強い作品でも、こういった知的作業ばかりになる作品でも同様なのです。そういったことを明確に示している演奏であると思います。

変態演奏を聴くことも楽しいものですが、それは喜びに繋がっているのか・・・・・こういった端整な演奏は常に、私に「音楽を聴く喜びとは何ぞや」と問いかけてきます。




聴いているCD
マルコム・アーノルド作曲
交響曲第7番作品113
交響曲第8番作品124
アンドリュー・ペニー指揮
アイルランド国立交響楽団
(Naxos 8.505178-4)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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