かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:ハイドン「四季」

今月のお買いもの、10月に購入したものをご紹介しています。今回はハイドンが作曲したオラトリオ「四季」全曲です。カラヤン指揮ベルリン・フィル他の演奏です。ディスクユニオン新宿クラシック館での購入です。

以前から、私はハイドンのオラトリオに興味を持っていました。それは遡ることもう10年くらいになります。合唱団に於いてモーツァルトを歌っていた時から、いずれハイドンのミサ曲やオラトリオが聴きたい、歌いたいと願ってきました。

歌うことはまだかなっていませんが、聴くことはミサ曲に関してはかないました。となると、次はオラトリオということになります。その第1段がこの「四季」となります。

ハイドンはオラトリオを4つ作曲していますが、実はそのうち「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」については、神奈川県立図書館所蔵CDのコーナーで弦楽四重奏曲版を紹介しています。

神奈川県立図書館所蔵CD:ハイドン弦楽四重奏曲全集22
http://yaplog.jp/yk6974/archive/565

実は、ハイドンのオラトリオの特色を上記エントリで少し語っているのですが・・・・・

今回はもう少し深く考察していきたいと思います。まず、「四季」がどんな作品なのか、ウィキを呈示しておきます。

四季 (ハイドン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%AD%A3_(%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%B3)

このウィキの説明は、ちょっと音楽や内容とはかけ離れたものとなってしまっており、残念だなあと思いますので、補足説明をかなり長くやらないといけないのですが・・・・・

ハイドンはそもそも、ロンドンでヘンデルメサイアを聴いていたく感動し、自分でもオラトリオを作曲しようと思い立ちます。それによって生み出されたのが、以下の作品群になるのですが・・・・・

トビアの帰還 Hob.xxI-1
天地創造 Hob.xxI-2
四季 Hob.xxI-3
十字架上のキリストの最後の7つの言葉 Hob.xx-2

実際は、一番早かったのが「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」で、これは私も弦楽四重奏曲でエントリを上げた時に申しましたが、ヘンデルのオラトリオとも違う形式で、むしろ音楽付朗読劇とも言うべき作品です。しかしこの「四季」では、基本的にオラトリオらしい形式をとっており、レチタティーヴォがあってアリアや合唱があるという形をとっています。

4つの四季が一つの塊となっており、それぞれに序曲がついています。これがこの曲の一つの特徴となっています。そしてまず、その一つ目の序曲である春のものは、劇的な激しい楽曲となっています。なぜなら、舞台設定が冬から春へ移り変わる正にその時期から始まるからです。実はこれが全体を貫いているテーマともなっているのです。

これがこの作品を難しくしている点でしょう。表面的にはこの作品は農村と四季と村民を描いたものとしてとらえられています。しかしそれだけではなく、それを根底として神への讃美を描いてもいますし、また同時の社会の風刺も入っている作品なのです。

なるほど、それじゃあ当時台本は評判よくなかったわけだなあと思います。要するに、詰め込みすぎ、なのです。

まあ、それはわたしもこのブログでよくやってしまうことですし、私自身はそれでダメであるとは言えない立場ですが、いろんなことを詰め込みすぎてしまうと、論点がぼやけるんですね〜。ですから私は、詰め込むときはなるべく段落をつけたりしたりして、言いたいことを幾つかに分割して、大事なことが幾つあるか、皆様に理解していただこうと工夫しています。しかし、台本作者であるスヴィーテン男爵は、それを考慮せず詰め込んでしまったのです。

特に、冬の一番最後でそれが顕著で、春から秋までは風景を描くような内容だったのに対し、冬では一転、哲学的あるいは宗教的なものへと変わっています。

これはハイドンは悩んだでしょうねえ。考えに考えた末、ハイドンはいくつかの作品から引用することを思いついたのです。春の第4曲目がその代表で、同じハイドン交響曲第94番『驚愕』の第2楽章(アンダンテ)から旋律を拝借していますし、第6曲では部分的ですがモーツァルト的な旋律を採用しています(モツレクからという意見もありますが、完全にモツレクから旋律を引用してはいません、一部アレンジしてだろうと思います)。それは煮詰まったということもあるでしょうが、そもそもスヴィーテン男爵と言えば、モーツァルトバロック音楽、或いは多感様式の作曲家である大バッハの息子達の作品をふれさせた人でもあります。「メサイア」の編曲がその成果です。

そういったことから、ハイドンバロックのように引用をすることにしたのだと思います。むしろ、ヘンデルというよりはバッハのカンタータを意識して作曲されていると考えていいでしょう。ところが、それが男爵との確執を生んでいきます。それはウィキに書かれている通りです。

これを説明したうえで、ウィキの説明を読まないと内容を理解するのは至難だと思います。何でそんなのどかな内容なのに悩まないといけないのだろう、ハイドンも歳でもうろくしたのか?と誤解を受けることになるでしょう。

確かに、作曲時の年齢もあるかとは思いますが、夫々の季節の設定が独特であるということもあるかと思います。厳しい冬が終わり暖かさが戻ってきたことを祝う春、けだるさだけでなく太陽への感謝が描写の中心である夏、収穫を狂ったように祝う秋、そして寒い・・・・・のではなく、むしろ哲学的で風刺と宗教的な内容に充ちた冬。この設定が作曲時に障害になっていたことは容易に想像できます。特に私が注目したのが、なぜこんな設定になったのだろうかという点です。元々、この作品はジェームズ・トムソンの同名の叙事詩を原作として、そこに当時の詩人達の作品を挿入したものです。ジェームス・トムソンはこの作品が成立する50年ほど前に亡くなった詩人で、物心ついたときは音楽史バロックから多感様式へ移る時代でした。

あまりトムソンに関する研究は日本に於いてなされていないようなので断定はできませんが、私はバロック芸術に深く影響を与えた、マウンダー極少期がこの作品の根底にあるのではないかと思っています。マウンダー極少期とは太陽活動が弱くなたことで起こった歴史上の小氷河期のことで、平均気温が明らかに下がったため、人間社会に深刻な影響をもたらし、それ故芸術に暗い影を落としたのです。

マウンダー極小期
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E6%A5%B5%E5%B0%8F%E6%9C%9F

終了は1715年だとされていますが、それはちょうどトムソンが15歳の時で、彼の情緒に深い影響を与えたでしょう。青年期がマウンダー極少期の、暗い時代だったのですから。そこから、なんでこのような台本になって「しまったか」もある程度推測できます。そもそも、トムソンの「四季」観が少年期から青年期における、マウンダー極少期の暗い時代を反映したものであると推測できるからです。

ウィキのマウンダー極少期の太陽黒点の数を示したグラフを見てみますと、太陽黒点が正常に戻ったのは極少期が終わって数十年たったころ、実はトムソンがなくなる時期(1748年)なのです。それまで地球がなかなか暖まらない傾向が続いていたと想像できますから、人びとの四季観も現在とは多少異なるのは当然です。いっぽう、この曲が作曲された1800年前後では、すでに太陽黒点の数は正常に戻って数十年たっており、当然のことながら平均気温も正常に戻っていたと想像できます。ですから、台本をハイドンが見て、「なんだこれは」と思ったのは当然ですし、さらにそこに風刺などを入れてきたことから話はややこしくなっています。その上で男爵が音楽の内容までに口を出してきたとすれば、ハイドンは怒りますよね。

その上で、なぜ、冬が終わったところから始まるのかが、この作品を理解するまず重要な点だと考えます。それ故、ハイドンも悩みながらも春から秋と冬とでコントラストをつけつつ、劇的な作品に仕上げたのです。のどかな田園風景を描いているはずなのに、後世ベートーヴェン交響曲第6番で表現した嵐と同等かそれ以上の劇的さを内包するこの作品は、地球物理学の視点から眺めませんとなぜなのかが分からなくなるように思います。

カラヤンの解釈は彼らしい快速となっていると、このCDのレビューを読みますといろんなところで言われていますが、実は快速であるのは劇的な部分だけであり、のどかな部分は実にゆったりと演奏されていて、実はウィキが示した演奏時間よりも長く、全体的には30分ほども長くなっています。これは私は、カラヤンが激しさと長閑さにコントラストをつけたから故だと思います。ではなぜなのか?ブックレットでも触れられていないので私の独断ですが、まさしくバロックという時代の芸術が全体としてはどういったものだったのかを考察したうえで、ハイドンの作曲を解析した上での判断だったと結論付けることが出来るでしょう。台本の原作の時代はいかなる時代で、それが台本にどう反映されているかを、カラヤンがスコアリーディングの時に考えた故であると言っていいと思います。

ですから、劇的な部分は驚くほど快速で、しかも激しさを伴っていますが、長閑な部分はソリストや合唱団のフレージングを大切に息を長く使わせています。それゆえに、本来田園風景を描いているはずの作品は、まさしくドラマと言っていいほどのクオリティを持っています。二つのコントラストがまさしく全体を劇的なものとしています。それを誠実に表現しているのが、ベルリン・フィルとベルリン・ドイツ・オペラ合唱団のコンビです。まさしくこれはベルリン・ドイツ・オペラにおける名コンビであり、オペラ合唱曲を演奏させたらぴか一のコンビです。特に合唱の激しさは天下一品だと言えましょう。オラトリオはまさしく、オペラへと変化しています。

その是非はピリオド演奏と比較すれば出てくるでしょうが、そこまでは言いますまい!ただ、初演時はもう少しおとなしかったことは間違いないと思いますが、こういった舞台作品と言ってもいいものは、当時でも編成が大きなものになることが多いため、モダンによるオペラ的な演奏もアリだと言っていいでしょう。



聴いているCD
フランツ・ヨゼフ・ハイドン作曲
オラトリオ「四季」全曲
グンドゥラ・ヤノヴィッツ(ハンネ/ソプラノ)
ヴェルナー・ホルヴェーグ(ルーカス/アルト)
ワルター・ベリー(シモン/バス)
ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(EMI TOCE-56219/20)



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