今月のお買いもの、3月に購入しつつもご紹介していないものを取り上げています。今回はオーケストラ・ダスビダーニャ第18回定期演奏会のCDの2枚目。いよいよ、メインのショスタコーヴィチの交響曲が始まります。この第18回定期演奏会のメインは、ショスタコーヴィチの交響曲第12番ニ短調作品112「1917年」です。
交響曲第12番 (ショスタコーヴィチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC12%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
あまり演奏機会がないとウィキには説明がある通り、我が国のリスナーもそれほど高い評価をしていないようなのですが・・・・・
しかし、ムラヴィンスキー(ショスタコーヴィチが信頼していた指揮者でした)が指揮した演奏で評価が変わった人もいるようです。
ショスタコーヴィチ
交響曲第12番
---「1917年」と呼ばれている曲---
http://homepage3.nifty.com/tkoikawa/music/shosta/sym12.html
確かに、ウィキの説明を読めば、ふつう「フン、体制に媚びた音楽でしょ?だからやっぱりショスタコは「赤」なんだよ!」という意見が聞こえてきそうです・・・・・
ショスタコーヴィチが社会主義者であることは間違いないと思います。ただ、共産主義者、つまりソ連共産党に忠誠を本当に誓った人だったかどうかは、私は様々調べたうちでは定かではないように思います。
上記のサイトだけではなく、下記のサイトでも疑念を呈しています。
Symphony No.12 "1917" in D minor op.112
交響曲第12番 《1917年》
http://kikuitimonji.kuchinawa.com/music/composers/shostakovich/opus/sym12.htm
この曲はレーニンを偲んで作曲されたものですが、ショスタコが「偲ぶ」という言葉を使うときは要注意だと、私は最近思っています。表面的にはレーニンを尊敬する内容であるものがもし、実は新たな支配に対して抵抗するためだったとしたら・・・・・
このCDのブックレットでも、演奏者が言及されていますが、第1楽章から第4楽章になるに従い、激しさは低減し、おとなしくなってくるのが分かります。そして、第4楽章では何か無理やり高揚感を作っているような感覚が私も演奏者同様感じます。それはまるで、第5番の第4楽章と同じような・・・・・
交響曲第5番 (ショスタコーヴィチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
第5番の第4楽章も、そういった「レトリック」が取りざたされる音楽です。それが真実なのかどうかわかりませんが、一番最後の部分は確かに何か無理やりという印象が否めないのです。そしてこの第12番でも同じ印象を持ちます。
このオケはとにかくショスタコの音楽に思い入れがあるわけで、だからこそ音楽的に激しい部分はいまどきのプロオケよりも激しく演奏するというのが少なくとも私が二つの演奏(このCDと今年の第19回)を聴いた感想です。そんなオケが演奏しているのに、なぜだか無理やりな高揚感を感じてしまう。そこに、この曲が持つ本来の意味があるのではというように思うのです。
私たちは、ソ連がどんな歴史を辿ったか知っています。なぜペレストロイカが起こったのかも知っています。その歴史を振り返れば、ショスタコが言いたいことは、作曲当時の体制は果たしてレーニンが目指したものと同じなのかどうかという、まさしくショスタコーヴィチがおこなった「クリティカルシンキング」の結果なのだということは言えないでしょうか。
ショスタコが「偲ぶ」という詞を使うとき、たいてい何かを皮肉ることが多いのです。例えば、先週取り上げた室内交響曲。弦楽四重奏曲第8番が原曲ですが、もう一度ウィキの説明URLを上げておきましょう。
弦楽四重奏曲第8番 (ショスタコーヴィチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC8%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
「戦争映画『五日五夜』の、ソビエト軍によるドレスデンのナチスからの解放の場面のための音楽を書くためにドレスデンに行ったショスタコーヴィチは、戦争の惨禍を目の当たりにし、自身の精神的荒廃と重ね合わることになる。そこで表向きには「ファシズムと戦争の犠牲者」に献呈するようにみせつつ、圧政により精神的荒廃に追い込まれた自身への献呈として、1960年7月12日から14日のわずか3日間でこの曲を作曲したのである。」
こういった複雑な背景がたいてい「偲ぶ」というものが付くときにはあることは、ショスタコの音楽が好きな人であれば理解することはたやすいでしょうし、好きではない人でも、そもそもソ連という国家は自由がなかったということを想起すべきです。その中で、幻滅していく知識人であるショスタコーヴィチを想像することは、それほど難しいことではないことでしょう。
例えば、現在の我が国に置き換えてみましょう。鳴り物入りで政権交代が行われましたが、それは今どうなっているでしょう?一方で、元与党は健全野党であることが期待されましたが、多くの人がその政党が健全野党だと思っているでしょうか?
資本主義で自由主義陣営であるはずのわが国でも、ショスタコーヴィチのように「体制に幻滅」する人が数多くいます。なぜこの年にダスビが第12番を取り上げたのか・・・・・・それはわかりませんが、団員にそいうった「現状に対する不満」があったことは、想像に難くありません。
アマチュアオーケストラの演奏であるにも関わらず、ここまでかけるのは、ショスタコーヴィチの音楽が単純ではなく一筋縄ではないことを明確に素晴らしい演奏で示してくれているという点にもあります。プロオケかと見まごう崩壊しないアンサンブル、統一されたアインザッツ、アクセント。ppとffがはっきりと区別されていることなど、アマチュアのレヴェルを通り越しているその演奏の素晴らしさにも起因します。
カップリングである、アンコール曲のヨハン・シュトラウス2世の「観光列車」も素晴らしい演奏です。これをダスビが取り上げるのは編曲がショスタコーヴィチであるからなのですが、弦楽器が主旋律であるのを打楽器が受け持ったりと、この曲も一筋縄ではありません。いったいこの編曲にどんな意思を込めたのだろうと思わず考えざるを得ません。それがまた楽しいのです!それはおそらく、素晴らしいアンサンブルを団員が楽しんでいるからであろうと思います。
ムラヴィンスキーをはじめ、所謂「名盤」というものも素晴らしいと思いますが、私はこう断言します。現代のオケでショスタコーヴィチを聴くのなら、プロオケもいいが、わたしならアマオケだがダスビを推す、と。
そう、これは名演、そして名盤と呼ぶにふさわしいと思います。
聴いているCD
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ作曲
交響曲第12番ニ短調作品112
ヨハン・シュトラウス2世作曲
ポルカ「観光列車」作品281(ショスタコーヴィチ編曲)
長田雅人指揮
オーケストラ・ダスビダーニャ
(Traumhaus LMCD-1958)
地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。