今回のマイ・これは、BCJのバッハカンタータ全曲演奏シリーズの第11集です。1723年7月から9月にかけて作曲された作品の内、第136番、第138番、第95番、そして第46番が収録されています。
今回のは国内盤です。とはいうもののBCJの場合BISの輸入盤に日本語解説を付けただけで、実際には輸入盤なのですが、解説がついているという点がいいのです。
楽曲の解説はすでに私はバッハ事典を持っていますし、最近はネットでも情報が得られますから、別になくてもいいのですが、一番知りたいのは、演奏者がどんな思いで演奏したのか、なのです。
この国内盤では、その「どんな思いで」が分かる点がいいのです。その点、最近はめっきり国内盤が出なくなりましたね。べらぼうに値段が変わるわけではないのですから、できれば鈴木氏の想いくらいをブックレットとしてつけてほしいなと思います。
それが無理であれば、BCJのサイトでエッセイの形で書き連ねるとか、そういったことをしてほしいと思います(確かに、コンサートの冊子は売るようになりましたけれど・・・・・)。
さて、その鈴木氏の「想い」ですが、このCDに収められている作品が7月から8月にという点が重要だと思います。日本ではこの時期は「お盆」であり、また終戦(鈴木氏は「敗戦」と言っておられます)記念日があるということで、日本人にとって夏という季節は特別なものであるということ、そしてそれは必ず「死」と関連づいているということを書いておられます。
終戦、敗戦どちらの表現であろうとも、先の大戦というもの、そしてそれ以前に夏は祖先の霊を慰めるという日本人が持っている民族的特色が、鈴木氏をしてこの時期の作品を集中的に取り上げるきっかけにもなっているのだということなのです。つまり、鈴木氏も日本人であるということなのですね。
しかし、バッハはプロテスタントです。プロテスタントでは死とは神との契約で永遠の安らかな眠りにつくこと。ですから、日本人のように祖先の霊を慰めるということがないのですが、この4つの作品もそうですが、生前に「死」と真摯に向き合うという作業をやっているということは、知っておくべきだと思います。
これに私なりの視点を入れれば、その遠因として、やはり直前までマウンダー極少期で気候が寒く、健康上の理由で人が命を落とすことも珍しくなかった時代が続いたということを鑑みる必要があるでしょう。その点では、リヒターのような演奏も決して間違いではないわけです。ただ、バッハが音楽活動をしていた時代はすでに太陽黒点数が復活し、太陽活動が正常に戻っていた時代であるということも、同時に考えなくてはならないわけです。
少なくとも、鈴木氏はキリスト者の立場で、私と同様に考えているということがこのブックレットで確認できます。
まず、第136番「神よ、私を究め」は1723年7月18日に初演されました。そもそもは既存の作品の改訂であることが直筆譜からわかるそうですが、オリジナルがいったいどういうものだったのかはわからない作品です。中間部の比較的くらい音楽から想像しますと、マウンダー極少期に書かれた、つまりヴァイマールあるいはミュールハウゼンで書かれたものである可能性も0ではないかもしれません。いずれにしても、科学的研究をまたねばならないでしょう。
内容としては、偽善者は必ず裁かれるということなのですが、その厳しいテーマも何となくこの時代を象徴するような気がします。太陽黒点と絡めて聴いてみますと、意外なメッセージが曲から浮かび上がってくるのが、私にとってバッハを聴く魅力となっています。
次に第138番「なぜ憂うるのか、私の心よ」です。1723年9月5日の初演で、コラール・カンタータの先駆と言われています。それは、題名のコラールをまず提示しておいて、それをアレンジしていくという手法を取っているからです。これは器楽曲では「変奏曲」と言ってもいいものです。こういったことを声楽曲でやっている点が、バッハの作品を聴く妙味だと思います。
内容は神への信仰によって神が寄り添ってくれることを説くものです。それをコラールを敷衍しながら進行する点がとても渋いなあと思います。決してかっこいいわけではないんですが、地味でありながらコラールがとても印象的に使われています。
3曲目は第95番「キリストは私の命」です。1723年9月12日に初演されました。これより後の作品をご紹介した時にも出てきている「やもめの息子をよみがえらせる」という説話で説かれている「安らかなる死への甘美なる憧憬」がテーマです。実はこの曲を鈴木氏はブックレットで引用しているのですが、なぜ引用するのかはそのテーマでわかります。確かに、夏というのはそういったことを、日本人は考えさせられますね。
構成もまたこの曲は特徴的でして、まず「死を想う」内容の4つのコラールが使われていること、それぞれに異なる役割が与えられていることです。そして、この曲の「言いたいこと」がすでに冒頭合唱で提示されていることも特徴です。テノールの「喜びを持って(死ぬ覚悟がある)」のが強制的で、後に続く合唱もあわただしいのは、もしかすると心からそれをおもっていないせいなのではないかということです。バッハそれを最終的に共同体の信頼レベルへと引き上げるよう音楽を形成しています。
その構成を考えると、なぜ鈴木氏が「敗戦記念日」と8月15日を表現しながら、この第95番を引用したのかが、うっすらとわかってくるように思うのです。震災後、何が起こったのか、思い出してみると思い当たることは二つや三つではないでしょう・・・・・
スペインから勲章をもらった、消防、警察、自衛官を代表して、消防指令がコメントした言葉と、このバッハの第95番は、私にはどうしてもオーヴァーラップしてきます。
4曲目は第46番「さあ目を留めよ、見るがいい」です。1723年8月1日に初演された、「罪と罰」をテーマにしたカンタータです。その前週には第105番が演奏されており、セットとしてとらえられています。この日の福音書句はイエスがエルサレムの崩壊を予言し、そのため神殿から商人を追放したことを取り上げたもので、そこからエレミアの哀歌の言葉(神聖な都市の崩壊を嘆く)を引用し、神の罰を呈示するという内容です(ブックレット解説から抽出)。
どうですか、このカンタータは。確かに日本の8月に似合っているという感じもしますが、私としてはこの曲ほど3.11以降の日本を絶妙に表現している音楽はないと思っています。マウンダー極少期が終わった直後のドイツらしい音楽ですが、それがなんと大災害の後の日本を絶妙に表すとは!
演奏面では、いうことないのですがテノールの桜田亮がちょっとだけ残念なのです。いや、発声は素晴らしいですし日本を代表するバロックテノールだと思います。しかし、第95番の厳しい表現がちょっとしきれていないような感じがしました。もし、それがバッハの狙いだとすれば、また違った世界が広がってきますが・・・・・このあたりは、判断が分かれる部分だと思います。その点でも、この第95番という曲は、バッハがいろんな「しかけ」をした音楽なのだろうなと思います。
聴いているCD
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第136番「神よ、私を究め」BWV136
カンタータ第138番「なぜ憂うるのか、私の心よ」BWV138
カンタータ第95番「キリストは私の命」BWV95
カンタータ第46番「さあ目を留めよ、見るがいい」BWV46
鈴木美登里(ソプラノ)
カイ・カッセル(カウンターテナー)
桜田亮(テノール)
ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン
(キングレコード KKCC2292)
※本体はBIS-CD-991です。
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