かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:バッハ オルガン作品全集2

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、バッハのオルガン作品全集を取り上げていますが、今回はその第2集を取り上げます。

成立順というわけではないんですが、まずは初期の作品が第1集とこの第2集には収められており、十分にバッハの作品の真の姿に迫っている様に思います。

中には、現在では偽作と判明しているヨハン・ミヒャエル・バッハ作のものも含まれていますが、とにかくバッハのものと言われているものはとりあえず全部収録してしまおうという、ある意味乱暴で手抜き編集だとも言えますが、その分確実に真作も入っているので、助かります。

数が多いので各作品を詳しくは取り上げませんが、最後に掲載している曲目を見ていただけるとバッハのカンタータが好きな方は一目瞭然だと思いますが、カンタータにも使用されているコラールがたくさんあるんですよね。これはたまたま第2集ではまとまったんだと思いますが、第1集でも収録されており、バッハがどのようにカンタータを作り上げていったのかの一端を見ることができます。

その上で、演奏するリゾワールはとても繊細なんです。バッハのオルガン作品といえば、圧倒的な「音」による支配と思われがちですよね。確かにトッカータとフーガではそんな部分もあります。神にひれ伏すってっ感じですよね。そこだけ取ってキリスト教の音楽はって言う人も多いんですが、ちょっと待ってください。キリスト教の音楽って、バッハが作曲したトッカータとフーガだけなんですか?

例えば、カトリックであればグレゴリオ聖歌があって、聖歌の基本となっており、その聖歌が様々な作品に変化したり、あるいはその精神がつけ継がれたりされてキリスト教音楽を構成しています。プロテスタントでもそれは同じで、簡単に言えばその大元がコラールということになります。そのコラールには様々な曲があり、そのバラエティのなんと豊かなことか!

リゾワールはそういったキリスト教音楽の歴史と内容をしっかりと理解した上で、決して力任せにはせず、作品が持つ「魂」をすくい上げていると思っています。こういった部分が、フランス人がバッハをアプローチするときのすばらしい点だなあって思います。

例えば、曽根麻矢子女史の「ゴルトベルク」を以前取り上げたことがありましたけれど、その演奏、実はフランスでの収録なんです。え、ドイツじゃないのって思いますよね?実際、鈴木雅明氏はドイツの片田舎の教会のオルガンでアルバムを収録しています。けれども、バッハの時代のヨーロッパを考えるとき、私はどちらも十分ありだと思います。

いまのように交通手段が発達はしていないものの、情報自体は受け取れる人たちの範囲が狭かったものの、ヨーロッパ中を駆け巡っていたんです。だからこそバッハはフランス舞曲も作品にどんどん取り上げていますし、フランスでも他国の作曲家、例えばブクステフーデなどは知られていたのです。

そういった時代だったということを、私達は昔を「遅れた時代」と考えるのでつい頭の中から追い出してしまうんですね。確かに私達人間は発展の歴史でした。バッハが生きたバロックという時代よりは、楽器も発達し音楽も複雑になりました。けれども、ではまったく文化交流もなく各国が閉じこもっていたのかといえば、そんなことはなかったんです。

ではなぜ、例えばバッハの音楽が多少深刻な部分を持っているのかといえば、まだドイツという国もなく貧しい部分もたくさんあったため、気候変動に対処しきれなかったため多くの死者がでた地域だった、ということを想起する必要があるのです。それが私が特にバッハの作品を聴くときに留意し、このブログでも常に触れてきた、マウンダー極小期なのです。

マウンダー極小期
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E6%A5%B5%E5%B0%8F%E6%9C%9F

バッハの音楽は、この太陽黒点が消滅したことで寒冷化した社会で、なくなっていった人たちへのオマージュになっていると、私は捉えるのです。一方、フランスも死者を出していますが、それを明るく振る舞うことで嫌な気分を振り払っていると考えれば、いかにフランス音楽が明るく善でドイツ音楽が精神性などと暗く悪であると考えることが短絡的か、わかるかと思います。多くの死者がでたというその状況は、多くの人達の精神を十分傷つけたものだったと想像できます。心理学で言えば、PTSDを患った、ということです。

そのPTSDから回復するアプローチとして、フランスとドイツとでは多少異なった経緯をたどった、というわけなんです。其上で、音楽家の内面も多分に影響しています。例えばバッハはかなり崇めまつられていますが、再婚しているんですが・・・・・その上で子供も多かった、ということはです、バッハって女好きの絶倫だったってことにもなるんです・・・・・

下世話な言い方をすれば、バッハの二人の奥さんは、バッハの精神性だけに惚れたんじゃなくて、そのセックスの旨さだとか、あそこの気持ちよさだとかで惚れた可能性も十分あるってことなんです。それはバッハという作曲家が、音楽一家に育ったということと無関係ではないと、元対人援助職だった私は考えます。いわゆる、機能不全家族ってやつです。そういったこともリゾワールが十分踏まえた上で、自分の音楽として咀嚼した結果が、繊細さだとしたら・・・・・私はリヒターよりはこのリゾワールのアプローチのほうを歓迎します。

まあ、気持ちいいセックスをするためには相手の気持ちを斟酌する必要があるわけで、その部分も含めてバッハの精神性だと言えるかと思います。私はバッハの精神性というときに、どうも真面目な部分だけがフォーカスされるのはいかがなものかって最近では思っています。バッハだって一人の人間です、男です。スケベな部分だってあったはずです。けれどそれを全面に出す男って、気持ち悪いって思いませんか?世の中の女性の方々。だから前面に出ていないだけだとすれば、バッハの音楽には真面目さという仮面をかぶった肥沃なあらゆる精神性の沃野が広がっている、と言えるのではないでしょうか。

バッハ自身、家族との関係性だったりとか、当時の社会だとかとの距離において、傷ついた部分がたくさんあったと思います。その証拠が、バッハの作品が持つドグマと言うか、一種の暗さだと思います。しかしだからこそ、明るい光の部分はとても美しいわけで、リゾワールがその両面をしっかりと弾き分けているのは、私にとっては共感の嵐なのです。こういった演奏を待ってました!と拍手喝采です。




聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
�@フーガ ト長調BWV577
�Aコラール「主なる神よ、われを憐みたまえ」BWV721
�Bコラール「われらキリストの徒」BWV1090
�Cコラール「甘き喜びに包まれ」BWV729
�Dフーガ ハ短調BWV575
�Eコラール「わがいとしの神に」BWV744
�Fコラール「いと高きところには神にのみ栄光あれ」BWV717
�Gコラール「イエスよ、わが喜び」BWV1105
�Hコラール「いと高きところには神にのみ栄光あれ」BWV711
�Iプレリュードとフーガ ハ短調BWV549
�Jコラール「高き天よりわれは来たり」BWV738
�Kフーガ ト短調BWV131a(註:カンタータ第131番「深き淵より、われ汝に呼ばわる、主よ」BWV131の終結フーガ異稿。「バッハ事典」P.137)
�Lコラール「甘き喜びに包まれ」BWV751(註;偽作。ヨハン・ミヒャエル・バッハ作。「バッハ事典」P.332)
�Mコラール「ああ神よ、天よりみそなわし」BWV741
�Nプレリュードとフーガ イ短調BWV551
�Oパルティ―タ 「キリストよ、汝真昼の光」BWV766
�Pプレリュードとフーガ ハ長調トッカータ ホ長調)BWV566
アンドレ・イゾワール(オルガン)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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