この2枚目には、リュートと同じような作品であるテオルボのためのものも収録されています。音色はそれほど変わりませんが、特に低音部が魅力的な楽器だと思います。
テオルボ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%9C
「も」というよりも、殆どテオルボのための作品が収録されているんです。ですので正確には、このアルバムは「リュートとテオルボのための作品集」というべきだと思います。
バッハの作品を彷彿とさせるような、でも全く違うものが並んでいます。時には哀愁すら感じるのはわたしだけなのでしょうか。
気品と質素とが同居し、素朴かつ生命力に富んだ作品が並び、それをキルヒホーフのこれまた生命のよろこびにあふれた演奏で聴きますと、楽器の歴史などどこかへ行ってしまいます。
よくあるのが、バロックなど遅れた時代なのだから聴く意味がない、というものですが、確かに楽器は現代に比べれば遅れた質素なものです。けれども、その遅れた楽器で作曲家が何を表現しているのかは、どんな時代であっても同じなのです。
もう一度いいますが、どの時代であっても、楽器で何を表現しようとするのか、言い換えれば、何を表現したくてある楽器を選択したのかは、全く変わりありません。人間が人間である以上は変わりないのです。演奏者は常に楽譜や楽器を通して作曲家と対話し、演奏により聴衆と対話するのはどの時代でも同じです。たまたまバロックのヴァイスであればそれがリュートという楽器だったわけで、現代の電子楽器によるものと同じなのです。
科学技術の発展により、楽器はより多くの表現ができるようになったのは事実です。特に電子楽器は、です。ただ、だからといって電子楽器が常にそのメッセージが豊富なのかと言えば、そうでもありません。そこを見誤ると、私達は作品や演奏からメッセージを受け取れなくなります。少なくとも、私はその姿勢を取りたくありません。
キルヒホーフはこの質素な楽器で存分に歌っています。そう、歌うんです!電子楽器を使った現代の作品は敢えて歌っていないものもありますが、始めから歌うことを拒否、あるいはあきらめている演奏も少なくありません。そんな中で、キルヒホーフは歌っているんです。これは素晴らしいなあって思います。
しかも、強迫的ではないのも、聴きやすいことにつながっているように思います。例えば、あのグールドも演奏では歌うことがあることで有名ですが、演奏は極めて強迫的です。それでもその強迫性が時として魅力ある演奏につながっているのですから、才能ある人だったと思います。一方のキルヒホーフは、強迫性は皆無で、とことん歌っています。だからこそ演奏は普通に見えてとても魅力的です。端正でともすれば個性がないように見える演奏は、実に歌謡性に富んでおり、聴く者を離しません。
こういった演奏こそ、実に人間としての魅力に富んだものだと言えるのですが、どうも目立たないとダメな人が多いようで・・・・・ちょっと残念な傾向だなって思います。
聴いている音源
シルヴィウス・レオポルド・ヴァイス作曲
組曲イ長調「イタリアのエスプリ」
「不幸な恋人」※
前奏曲、クラント、フーガとプレスト ニ短調※
組曲ト短調※
「嘆き」※
ソナタ ヘ長調※
ルッツ・キルヒホーフ(バロック・リュート/テオルボ※)
地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。
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