かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から〜小金井市立図書館〜:ベームが振る第九

東京の図書館からのコーナー、今回は小金井市立図書館のライブラリである、ベームが振る第九をご紹介します。

ベームですから、当然元音源はドイツ・グラモフォンベーム指揮ウィーン・フィルベートーヴェン交響曲はこれ以外にもあったと思うのですが、全集であったかなあって思います。確実に全集であるのは、ガーディナー指揮の古楽だったと思うのですが・・・・・

兎に角、ベームの第九、です。テンポもゆったりとしていて、カラヤンの様にはあくせくしてはいません。とは言っても、カラヤンも幾つか出すうちにテンポは比較的ゆったり目にはなっているんです。ですから、カラヤンベームは比較されますが、ともに晩年はそれほどテンポでは違いがないと言っていいでしょう。

では、ベームカラヤンでは、どこが違うのか。少なくともこの音源に関して言えば、第1楽章はゆったりとは言え、スウィトナー/シュターツカペレ・ベルリンくらいのテンポではあるんです。それだけ、ベームとしては若干速めかなって思います。それが生み出す緊張感と躍動感。それは私達聴衆にとっては生命力を感じる演奏になっています。

むしろ、ゆったりとしたテンポが顕著に感じるのは、第4楽章なのです。特に練習番号Mのユニゾンの部分はゆったりと振っているので、かなり遅く感じてしまいますが、その前のアラ・マルシア後のオケのみは激しく、テンポも若干速め。むしろ、評論家は誰もベームの変態演奏ぶりを指摘しません。え、もしかすると、アレ、ですかって?その通りです。

何時も私が指摘する、vor Gott!の部分は、vor1拍に対して、Gott!が5拍しか伸ばしていません。本来ベームのようにゆったりと伸ばして演奏するなら、そこは少なくともフェルマータの意味通り6拍にするはずです。しかし、ベームはこの音源ではそうしていません。若干だけ短いんです。印象からすれば、合唱が終わるとアタッカでアラ・マルシアに入るって感じで、これはカラヤンと何ら変わらないんです。

ですから、テンポとかで彼はどうのとか、人格攻撃で支配的だとか、んなことでベームを相対的によく見せようとする人たちが、ベームの音楽性を正しく認識しているとは、私は言い難いと思います。ベームはよく、団員と話す民主的な指揮者だと言いますが、この5拍という厳然たる事実は、一体どう考えるべきなのでしょうか。なぜなら、それは確実に団員とぶつかる場所だから、です。

よくこの演奏を聴きますと、面白いことに気づきます。それは、最終部分の「神々の放つ花火!」では、合唱が歌い終わるかという段階でささっとオケのみのクライマックスへ突入するからです。これは実はベームが音楽を勉強した19世紀では普通の解釈だったのです。当然ですがオケの団員もそのように思っています。それを変えたのが、カラヤンなど次の世代でした。楽譜に忠実なら、合唱が「ゲッテルフンケン」をはっきり歌い終わるその後でオケの次の旋律で終わるはずだ、と。

でも、ベームは19世紀の解釈である、ゲッテルフンケン!と叫ぶように、短く歌わせているんです。これ、オケだけ聴いている人はあまり注目しないんですね。私もその違いは知ってはいましたが、時代によって歌わせ方が異なり、叫ばせるほうが古い解釈なのだということを、昨年末のNHKFM「ビバ!合唱」で知りました。その時の私の衝撃たるや、ものすごいものでした。

つまり、ベームはちっとも民主的ではないんです。たまたま、オケと解釈が同じだっただけ、なんです。ですからカラヤンのようにわざわざ支配的になる必要性もなかったのです。一方で、それでなぜカラヤンはオケに対し支配的になったのかの一端が、それで見えたのです。オケがそれまで持っている解釈を変更するわけです。相手は職人、そう簡単ではありません。ですから、ついつい支配的になった・・・・・そう考えられます。

ベームはちっとも個人を大切にしたわけじゃないんです。たまたま、オケが持っている解釈と同じだったため、オケの解釈を大事にしたように見えただけ、なんですね。むしろオケよりも合唱のほうで、さまざまな声による「色」をそのまま表現に活かしている、と言えます。恐らくそこから間違いが生まれたのでしょう。合唱団はウィーン国立歌劇場合唱団。第九のような野性味もある作品は、オペラ的にも歌えますので、オペラを歌い慣れている合唱団がそのままを出せばいいだけです。それがベームの解釈だったと思われますし、だからこそ合唱団は国立歌劇場だったと思います。なぜなら、ウィーン・フィルならむしろ楽友協会合唱団だからです。ウィーン・フィルが国立歌劇場合唱団と共演するなら、むしろウィーン・フィルが国立歌劇場管弦楽団として活動するときのほうが多いはずです。

でも、この音源ではウィーン・フィル、です。多分、本来はそのコントラストを楽しむのがこの音源の魅力なのだろうって思います。そこを聴衆が受け入れるのか否か。それがこの音源が放つメッセージですし、ベーム/ウィーン・フィルというコンビが好きな人たちが、どこまで受け入れるのかってところでしょう。でも、日本人の多くは、ベームが名指揮者ということだけで聴いていやしないかって思います。それはカラヤンがいいと言われているってカラヤンを聴くのとなんら変わらないです。

私はそれが、クラシックを聴き始めた時とても嫌でした。ですから、カラヤンは勿論、ベームですらなかなか手を出さず、それ以外の新しい録音を、できればもうCDの時代でしたからデジタルマスターリングのものをって探していました。ですから私の演奏評の基準は自ずとカラヤンベーム以降の指揮者たちの解釈ってことになりますし、そこに自分が歌った経験が入る独自のものになるわけです。ですから当然ですが、カラヤンも是々非々の内の一つにすぎませんし、ベームも同じなのです。

今はそれでよかったと思っています。カラヤンベームもともに極端に思うことなく評価できる・・・・・それは自分の核があったうえで、さまざまな演奏が聴けて楽しめるということにつながったことで、さまざまなものを自家薬篭中のものにできる喜びへとつながっているからです。ですから、逆にカラヤンよりはベームというのは、第九、あるいはベートーヴェン交響曲全体としては言えるだろうと思ってもいます。だからと言ってカラヤンを全否定はしない、いいものはいい、ダメなものはだめ、ただそれだけです。このベームにしても同じです。だからカラヤンよりは素晴らしいと言っても、それが的外れではカラヤン党に付けこまれるだけです。私は有無を言わさず、いいものだからいい、悪いものだから悪い、と言うだけ、です。 ベームだって19世紀の解釈を変えようとはしなかった堅物だたわけで、当然ですが新しいことをする人とは、別段カラヤンに限らず衝突したことでしょう。

でも、この演奏は素晴らしいんです。それはベームの人格と言うよりは、ウィーン・フィルの保守的な姿勢とベームの保守的な姿勢がたまたまあいまって、その上で作品そのものに様々なものがさまざま会っていい中で一つになるという、スピリチュアリティがあるからこそ、です。カラヤンはそこを表現できなかったと言えます。それが何とか形になっていくのは晩年になってからです。むしろ、新しいことをやるのに躊躇なかったフィルハーモニアとのものにいい演奏が多いのがカラヤンです。ですから、ベルリン・フィルとも素晴らしい演奏が多いのはシベリウスであるということは、あまり知られていないですね。

このベームの演奏は、ちょっとした知識があるだけで世界が変る、典型的な演奏であると言えるでしょう。さあ、真のベームの解釈とはいずこにあるのか、自らの耳で確かめてみませんか!それを自分の人生に対してどう作用するかなんて、後から考えればいいことです。




聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」
ギネス・ジョーンズ(ソプラノ)
タティアーナ・トロヤノス(アルト)
ジェス・トーマス(テノール
カール・リッダーブッシュ(バス)
ウィーン国立歌劇場合唱団
カール・ベーム指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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