かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:リスト ピアノ作品全集21

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、元音源ナクソスの、リストのピアノ作品全集を取り上げています。今回はその第21集を取り上げます。第21集は、「第九」です。

リストのトランスクリプションの中で、じつは一番有名なのが、「第九」だと思います。以前はCDも銀座山野楽器だけではなく、私鉄の郊外ターミナルの小さな店舗ですら見かけたものです。

ベートーヴェンの第九はそれだけ、多くの作曲家を捕えて離さないのです。それはおそらく、第九という作品が持つ普遍性と、スピリチュアリティ故だと思います。

リストにはファンはいましたが、仲間と呼べるのは同時代の作曲家たちです。ともすればそれはライバルであり、切磋琢磨する関係です。いい仲間ではありましたが、時として関係性としては複雑になることもあったようです。であれば、第九の歌詞である「歓喜に寄す」が成立した背景などを知れば、うらやましがるのは当然であり、また、市民革命の時代を知っている彼らとすれば、ベートーヴェンが生きた時代などを想像することができる分、感情移入も半端ないことは容易に想像できるでしょう。

フリードリヒ・フォン・シラー
生涯の親友ケルナー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%BC#.E7.94.9F.E6.B6.AF.E3.81.AE.E8.A6.AA.E5.8F.8B.E3.82.B1.E3.83.AB.E3.83.8A.E3.83.BC

この成立過程がとてもスピリチュアルなのです。同じように仲間を必要としていたベートーヴェンは感動し、甥カールとの関係がぎくしゃくして、「底着き体験」をした晩年に、若き頃からのアイデアを作曲にうつします。それが、交響曲第9番であり、その過程が、リストをして感動せしめたと言えるでしょう。

交響曲第9番 (ベートーヴェン)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC9%E7%95%AA_(%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3)

このような作品がそうそう演奏回数がふえる筈もなく、ましてやオケの編成が小さい古典派〜前期ロマン派の時代では、演奏自体が難しかったのです。だからこそ、リストは編成を単純化すれば演奏する敷居が低くなるので、広まるだろうと考えて、ベートーヴェン交響曲のトランスクリプションは始めたであろうことは容易に想像できるわけです。実際、この演奏はピアノ独奏ですが、合唱パートも楽譜にはついているそうです。

とすれば、リストは明らかに、ベートーヴェンの9つの交響曲は、モーツァルトが自身のピアノ協奏曲第14番をピアノ四重奏版へと編曲したように、ピアノ独奏版へと編曲しようとした結果である、と言えるでしょう。その原動力となったのは、正に楽聖の素晴らしい作品が、もっと演奏されるようという想いに他なりません。

トランスクリプションですから、当然ですが原曲とは異なる部分は数多くありますし、この演奏はピアノ独奏であるせいなのか、第4楽章では独唱者の部分をピアノの左手で弾いているのも判ります。だからこそ残念なのは、本来リストは合唱団の部分はそのままにしてトランスクリプションをしているのですから、合唱付きで演奏してほしかった、という点です。だから買ったのが、ワーグナー版だったわけです。

マイ・コレクション:BCJ小川典子のコラボレーションによる「第九」
http://yaplog.jp/yk6974/archive/690

ワーグナーがなぜピアノ独奏版をトランスクリプションしたかと言えば、まさしく、オケがなくても演奏されるべきだと考えたからです。リストもまったく同じ理由を持っていたはずです(それは、演奏を聴きますと二重フーガ直前部分で明らかです)。そしてリストの場合は加えて、自身の編曲や演奏の腕を披露するためであったり、作曲にいかすための研究だったりという意味合いもあったと考えていいと思います。多分、恐らくワーグナーもだったと思いますが。で、ワーグナーは当然、リストのこの編曲を知っていたはずですし、そのアンチテーゼとしての意味合いもあったことでしょう。

そしてそれは、現代では、ヴォーカル・スコアとして結実しています。そう、合唱団が練習するときに使う楽譜です。演奏を聴けば、歌った経験のある人であれば、練習の時のピアノ伴奏に似ている、と感じることでしょう。当然、歴史からすれば、このトランスクリプションを参考にしてヴォーカル・スコアが成立したことは間違いありません。特にvor Gott!以降、男声合唱の後から練習番号Mまでの部分はそっくりです。

私たちは、リストのトランスクリプションの恩恵を多大に享受していると言っていいでしょう。特に日本のアマチュア合唱団の方たちは、一度真剣にこのトランスクリプションを聴いてみると面白いと思いますし、また、練習ピアニストの方の苦労も偲ばれるのではないかな、と思います。ついつい、私たちは合唱指揮者や正指揮者たちだけに感謝しがちなんですが、練習ピアニストはそれは苦労も多いのです。仕事で私は現在人をケアする仕事をしていますが、いかに練習ピアニストが大変か、日々思い知らされています。このリストの編曲は、気が付かせてくれる点が沢山あります。

演奏はといえば、第1楽章から第3楽章まではトランスクリプションですから、時折ピアノ独奏曲のような雰囲気も漂いますが、第4楽章になると一変、ピアニストのシチェルバコフに熱がこもってきます。特に208小節以降はまさしく「交響曲」となっており、しかし難しいはずなのですが神がかったように全身全霊をかけた演奏になっております。合唱が入っていないはずなのに、何故か涙が止まりません・・・・・vor Gott!の部分はvor一拍に対してGott!は5拍しか伸ばしておらず変態演奏であるにもかかわらず、です。そんなことは「どこかへ行ってしまい」、いつしか私の前には天使ケルビムが、神の御前に立つかのようになっているのです。

シチェルバコフの演奏もさることながら、原曲が持つ普遍性とスピリチュアリティ、そしてリストのトランスクリプションの出来の良さ、込めた想いがなせる業であろうと思います。




聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
フランツ・リスト編曲
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」S.464/R128
コンスタンティン・シチェルバコフ(ピアノ)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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