かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:チャイコフスキー 弦楽四重奏曲全集2

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、チャイコフスキー弦楽四重奏曲全集を取り上げています。今回はその第2集を採り上げたいと思います。

第2集には、第3番と単一楽章の変ロ長調が収められています。恐らく、普通は顧みられることは少ないかもしれません。

私はこの第3番、とても気に入っています。古典的な様式を持ちつつも、ロシア的な旋律とリズムを持ち、哀愁もあり、まことにチャイコフスキーらしい作品です。

弦楽四重奏曲第3番 (チャイコフスキー)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC3%E7%95%AA_(%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC)

第3楽章までは、各楽章が続いているのかと思うような部分もあり、チャイコフスキー室内楽の中でもかなり完成度が高いと思います。チャイコフスキー自身は第1番よりは好んでいなかったようですが・・・・・

リズムが印象的な第4楽章は生き生きとした生命力を持っています。この演奏がアインザッツを「立たせる」近代的な演奏であるせいかもしれませんが、特に生き生きとしています。その一方、第1楽章は多少重々しく、不協和音も目立ち、暗さもあります。そのコントラストが素晴らしいです。

そして、単一楽章である変ロ長調は、実際には第1楽章とする予定であったようです。学生時代の作品なので第3番(1875年作曲)よりは古い(1865年作曲)作品ですが、それでも習作という感じは全くせず、いきなりメロディアスでヴァイオリンはソリストとしての部分もあり、完全な形になっていれば全体の中で印象的な楽章になったはずです。

弦楽四重奏曲変ロ長調 (チャイコフスキー)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E5%A4%89%E3%83%AD%E9%95%B7%E8%AA%BF_(%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC)

チャイコフスキー弦楽四重奏曲をまとまった時期に書いており、あまり興味がなかったのではと言われますが、チャイコフスキー交響曲である意味ベートーヴェンを超えたとも言うべき実績を上げた人ですから、どうなのだろうと思います。むしろ、弦楽四重奏曲の内面性を、交響曲に持ち込んだ人だと私は考えています。であれば、第3番以降弦楽四重奏曲を書いていないことはごく自然なことであると考えることができます。

チャイコフスキーはまさに、この4つの弦楽四重奏曲を書いた時期に、交響曲第1番〜第3番までを書いています。第1番〜第3番までは、実に当時の交響曲の流行にそった作品であると言えます。第1番〜第3番までは、所謂ロシア国民楽派の作品だと言えます。

ところが、一番演奏される第4番〜第6番はどうでしょう?コアなクラシックファンの方々であればお分かりかと思いますが、むしろチャイコフスキーの内面が発露されている作品だと言えます。そしてその作曲年代が、ちょうど弦楽四重奏曲を作曲し終えた時期の後に来ているのは偶然でしょうか。

交響曲第4番 (チャイコフスキー)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC4%E7%95%AA_(%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC)

第4番の作曲は1876年。弦楽四重奏曲第3番の翌年です。此れからすると、私としてはチャイコフスキーは壮大な実験を第4番以降始めたのだと言うようにしか判断できないのです。

ベートーヴェン以降、弦楽四重奏曲と言えば、サロンの中で自分の気持ちを表現するジャンルでした。それはチャイコフスキーも変えていません。ところが、交響曲は変えています。第3番までのベートーヴェン以来の伝統からすれば、所謂大論文のような存在だったものを、第4番以降はサロンで自分の気持ちを表現する内容に変わったからです。特に、入水自殺以降の第5番と第6番は、自らの人生を見つめた結果の発露のような作品となっています。それは古典派以降の伝統からすれば、弦楽四重奏曲で取り扱うはずの内容です。

つまり、チャイコフスキーは音楽院卒業後、交響曲弦楽四重奏曲の融合、或は交響曲弦楽四重奏曲の内容を持たせることを目指していたのではないかと推測できるのです。チャイコフスキー弦楽四重奏曲を全て聴くという事は、チャイコフスキー交響曲を理解することに繋がるような気がしてなりません。

多分それが、古典派好きな人たちからは、チャイコフスキー交響曲そのものの低評価に繋がってしまっているのではないかと思います。意外に思われるかもしれませんが、クラシックファンの中でも、チャイコフスキー交響曲の評価は低いのです。特に、ベートーヴェン交響曲に過度の「精神性」を持たせようとする人たちからすれば、目の敵ともみなされている存在です。余りにも自分の感情に流され過ぎている、と。

確かに、チャイコフスキー交響曲は第4番以降、感情が前に来ています。しかしそれは同時代の他の作曲家達とは明らかに異なるスタンスであり、まさしくチャイコフスキーの個性、或は独創性だと言えます。そもそも、国民楽派というジャンルは、ナショナリズムと密接なかかわりがあり、国威発揚の意味も持っていることがあります。それは国民の感情に訴える事であり、既に第3番までも感情が全面に押し出されていると判断できますが、まだ「国家」という大きな存在を感じることができます。しかしチャイコフスキーはそれとは距離を取り、ナショナリズムよりはむしろ愛国心に近い感情の方を採用し、国家主義を薄めた作品を第4番以降書いていったという事は、当時としては画期的な事だったと言えるのです。

さらに言えば、それは旋律線がはっきりしている古典的な様式を備えるものの、後の新古典主義音楽をブラームス同様準備したと言えるでしょう。私も19世紀末のロシアナショナリズムに関してはあまり詳しくありません。他のヨーロッパ諸国同様に、帝国主義の中で他国と相対していたとしか知りません。しかしチャイコフスキーの作品を聴くという事は、ロシア国内に、国家主義ではなく、もっと地に足が付いた「愛国主義」が存在していたことを、私達に教えてくれていることなのではないかという気がするのです。

4つの弦楽四重奏曲を聴くという事は、6つの交響曲を理解することへの助けなのであると、私は考えます。

この演奏はサンクトペテルスブルク・フィルハーモ二―四重奏団で、オケの団員が組織した四重奏団です。つまり、いつもは交響曲を演奏することが多いという事になります。そんな彼らが室内楽団としてこの4つの作品をアプローチしていくとき、すべての作品で生命力を忘れていません。リズムを立たせて生き生きとさせ、4つの作品には必ず生命力が宿っていることを示しています。べったりとした演奏ではなく、立体的で、淡々とした演奏の中から曲の心臓が動いているのが見えるようです。とても人間的なのです。

それはつまり、私達日本人が持つ、チャイコフスキーへの印象が、正しいのかどうかを突きつけているような気すらするのです。交響曲の第4番以降の作品を考えれば、弦楽四重奏曲はもっと生命力をもって演奏したほうがいいのでは?という一つの問題提起が、全集を通じて行われている・・・・・

この第2集でも、殆ど演奏されない変ロ長調の作品も生き生きとした演奏ですし、それ故学生の作品とは思えない、独創性のある作品であることを聴いて即理解できます。チャイコフスキー弦楽四重奏曲は3つしかないからつまらない・・・・・

本当につまらない?と言われているような気が、最後までのこる演奏だと思います。




聴いている音源
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲
弦楽四重奏曲第3番変ホ長調作品30
弦楽四重奏曲変ロ長調
サンクトペテルスブルク・フィルハーモ二―四重奏団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




このブログは「にほんブログ村」に参加しています。

にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシックCD鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ 合唱・コーラスへ
にほんブログ村