かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ヴォーン・ウィリアムズ 交響曲全集5

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、ヴォーン・ウィリアムズ交響曲全集を取り上げていますが、今回は第5集に収録されている第6番と第9番を取り上げます。

ここまで番号順に収録されてきたこの全集ですが、ここで第9番が先に登場することとなります。その理由は、次の第6集で明らかになるのですが・・・・・・

まあ、時間の関係だとだけ申しておきましょう。この二つでも収録時間は70分を超えます。

第6番は1944年から着手され、1947年に完成した作品です。戦争の混乱というか、影響がようやく作品に現われてきています。

交響曲第6番 (ヴォーン・ウィリアムズ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC6%E7%95%AA_(%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%82%BA)

第1楽章と第4楽章の音楽の違いが明確なのですが、それを時系列で述べることも可能でしょう。つまり、第1楽章は戦争を、そして第4楽章は戦争後を表現したもの、という解釈です。それも可能でしょうが、私はもっと俯瞰的に見ているのではないかという立場です。

第5番も第2次世界大戦中に完成した作品ですが、戦争の影を殆ど見いだすことができません。それが一転、この第6番では戦争を題材にしたとか言われるのです。不思議だと思いませんか?イギリスは戦勝国ですよね?でもなぜでしょう?

同じ戦勝国である、ソ連ショスタコーヴィチもそれほど希望に満ちた作品を戦争後書いたわけでありませんが、それは体制による点もありました。ところが、ヴォーン・ウィリアムズはイギリスという自由と民主主義を標榜する国の作曲家です。では何が想像できるでしょう。

私はその原点を、前作第5番にあると見ます。第5番では戦争による不安は表に出ていません。しかし、内に秘めている可能性はあるのではと思います。戦争を反映はしていませんし、その解釈は全く前回第5番を取り上げた時と同じです。では、なぜ第5番に原点があるかと言えば、まさしく、その「戦争を反映していない」という点にあるのです。

心理学では、ピエロという表現を使いますが、まさしく、ヴォーン・ウィリアムズはピエロとなって、戦争の恐怖や不安を押し殺して、第5番を作曲したと言えるでしょう。しかし、人間は不安をどこかで手放さないと生きていけない生き物です。そのドグマが、この第6番に思いっきり出ているとすれば、すべてが納得いくのです。

つまり、この第6番は、第5番で押し殺した、戦争に対する不安や恐れというものが、戦争を経験したことでさらに増幅され、もう表現せずにはいられない状態であったということを意味しています。第2楽章モデラートで、まるで警報のようなトロンボーンの音が鳴り響きますが、それはまさしく、恐怖の裏返しであると言えるでしょう。その第2楽章から第4楽章までが連続して演奏されるという点にも、それが現れていると思います。

この作品は、ヴォーン・ウィリアムズが単にほんわかした作品を書く作曲家ではなく、ほんわかしたものを書くくらい、やはり繊細な神経を持っているひとだったことを、明確に表わしていると言えるでしょう。私達のヴォーン・ウィリアムズ観を顧みさせるのに十分な「破壊力」を持っていると言えます。

第9番は1957年に完成された作品で、初演の4か月後に作曲者が死去したという作品です。それだけ、晩年の作品だと言えるでしょう。

交響曲第9番 (ヴォーン・ウィリアムズ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC9%E7%95%AA_(%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%82%BA)

この作品では、今までのほんわかしたものが幾分後退し、不協和音が鳴り響くものとなっています。一方、フィナーレでは旋律的になって、堂々と、かつ繊細に終わるというものになっています。それまでのヴォーン・ウィリアムズの作品の集大成とも言える作品です。

ヴォーン・ウィリアムズと言えば、番号が付いていない作品が代表作と言われるのですが、この第9番を聴きますと決して歩みはホンワカ一本やりでは無なかったことがはっきりと示されています。勿論、最後はまるで最初の交響曲に回帰するかのような音楽ですが、かといって同じではありません。不協和音のほうがはるかに耳に残る作品となっています。その上で、ファンファーレがまるで消えゆくような音楽も印象的です。

第9番では、不協和音と旋律を、どういうバランスで配置するのかということがテーマになっているように私には思われます。そのバランス感覚が良くないと、この作品はつまらないものになりかねないのではないかという気がします

プレヴィンはロンドン響を、誠にしっかりと鳴らし、第6番の戦争と自己の内面というテーマ、そして第9番の和声と旋律のバランスというテーマを、しっかりと表現しているように思います。うまいなあという一言で、聴いている時には済んでしまいがちなんですが、やはりブログで表現するとなると、どううまいのかを書かなくてはなりません。

では、そのうまさとは何かと言えば、この2曲のテーマが明確に聴衆に伝わる、つまり伝える力があるということです。上手なオケなどヨーロッパには佃煮にできるほどあります。しかし、表現力、その表現力による伝える能力、つまり聴衆とのコミュニケーション能力となると、限られてくるだろうと思います。ロンドン響もその一つのオケではないかと思います。それはプレヴィンという才能によって更に強化され、素晴らしいアンサンブルがはっきりとした言語を持ち、だからこそ私たちにはっきりとメッセージを伝えているのではないかと思います。

アンサンブルのレヴェルの高さ、アインザッツ、それら総動員した表現力・・・・・どれも、オケという「言語」には不可欠なものです。それがすべてしっかりと一定のレヴェルがあって初めて、ヴォーン・ウィリアムズのこの二つの作品を、聴衆と「コミュニケーション」することが可能であると言えるでしょう。この演奏はそのコミュニケーション力が抜群であると、言いたいと思います。この演奏をチョイスした神奈川県立図書館の司書の方のセンスは、素晴らしいと言えます。




聴いている音源
レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ作曲
交響曲第6番ホ短調
交響曲第9番
アンドレ・プレヴィン指揮
ロンドン交響楽団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




このブログは「にほんブログ村」に参加しています。

にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシックCD鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ 合唱・コーラスへ
にほんブログ村