かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ショスタコーヴィチ 交響曲全集10

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、ショスタコーヴィチ交響曲全集を採り上げていますが、今回は第14番が収録されている第10集を取り上げます。

ショスタコーヴィチ交響曲第14番は、構成的にはマーラーの「大地の歌」に影響を受けていると言われています。

交響曲第14番 (ショスタコーヴィチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC14%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

歌詞の元となった詩の原語訳が、巻末の「ドミトリー・ショスタコーヴィチ 「梅丘歌曲会館『詩と音楽』」の中のページ。」にありますが、それを読みながら音楽を聴きますと、そのページで解説されているものとは私は少し違った視点を持っています。

ショスタコーヴィチは常に、死と隣り合わせの人生を送ってきたと言える人です。それだけ特にスターリン時代は、自由にいろんなことが出来なかったうえに、自由にしようとすればたとえ社会主義から外れないものでも、命がなかったという時代であったことを、散々言及してきましたが、その上でこの作品は作曲されているということを、忘れてはならないように思うのです。

歌詞の中で監獄だとか、身投げなど、とかく死に関する言葉がふんだんに出てきますし、また、抑圧をテーマにしたものも第2楽章から第8楽章に集中して出てきます。ここから浮かび上がるのはどうしても、ショスタコーヴィチの「来し方」しかないのが私の考えです。

それと、ショスタコーヴィチ自身が、人生の最後に近づいたということもあるでしょう。初演は1969年。ショスタコーヴィチが死ぬ6年前です。すでに健康を害していた彼は、死期を悟るようになっていました。自分の人生を振り返り、せっかく到来した「雪解け」の時代を無駄にするまいとして、「遺書」のつもりでこの作品を作曲したのではないかとさえ思います。

そうでなければ、入院中というハンデを負っている状態で、4週間という短期間でスケッチを完成させることは難しいでしょう。この作品のテーマは「死」と言われますが、私はもっと「抑圧とそれによる死」であると解釈しています。ウィキのページの、ショスタコーヴィチの言葉を思いだしてください。

「人生は一度しかない。だから私たちは、人生において誠実に、胸を張り恥じることなく生きるべきなのです。」

初演時のリハーサルでショスタコーヴィチが述べたスピーチです。ショスタコーヴィチはその通りに生きようとして、抑圧を受け、命の危険にさらされ、そのため生き残るために自分を抑圧し、精神を病んだのです。この作品に、それが如実に表れている楽章があります。それが第8楽章「コンスタンチノープルのサルタンへのザポロージェ・コサックの返事」です。

もし、このブログの読者の方で、ブラックミュージックにも精通している人がいらっしゃれば、比較的言いたいことは理解できるかと思います。例えば、エミネムなどが代表ですが、彼らが作る歌詞と、殆ど同じであることにビックリされることでしょう。19世紀ロシアで、おなじような詩(というより、これは手紙への返事ですが)を書くような人がいたのです。それをショスタコーヴィチは掬い取ったのです。それはいわば、ショスタコーヴィチもそのように考えていた節があることを、私達に教えてくれています。

勿論、実際にショスタコーヴィチが汚い言葉を吐いたわけではないでしょうが、スラングのようなものを使っていないとはだれも言えないわけです(英語でいえばFuck you!のようなもの)。これはショスタコの強いメッセージであると言えましょう。

この作品は、バッハやモーツァルト、或はベートーヴェンマーラーと言った作曲家、そして当時アメリカなどで勃興していた、ブラックミュージックの影響も受けているのではと、私は考えています。明らかにクラシックの伝統を踏まえた上で、第8楽章のようなスラング系の歌詞も持ってくるというのは、それしか答えが導き出せないからです。勿論、文学にもショスタコーヴィチが興味を持っていた証拠ですが、その「文学」と言った時、その意味は多岐にわたるように、この作品は教えてくれます。

音楽の嗜好が、20世紀後半に入って明らかに文明国で変化していくそのさまを見て、ショスタコーヴィチはシンフォニストですから、共感したうえで、しかし境界線を引いて、シンフォニストとして作曲したのがこの第14番である・・・・・これは私見ですけれど、私の解釈です。

もしそうだとすれば、この第14番はクラシックの素養だけでは理解しにくいだろうと思います。ブラックミュージックも知っていないと、難しいのではと思います。解説をしているひとが難しく思っているのは、おそらくこの作品がクラシック以外のジャンルを取り込んでいて、その素養もないと共感できないようになっているからではないかと思います。その意味では、お休みしている間、エミネムなどの音楽にも触れることが出来たのは、私にとって天啓であったと思います。そのおかげで、この第14番が意味するものが、直感的に理解することが出来る・・・・そして、それは明らかに音楽を聴く喜びにつながっていると思うのです。

バルシャイは、打楽器を印象的に演奏させています。そのために端正さを前面に出しています。その上で、抑圧と死に関する楽章については、劇的な演奏となっています。透明感が生み出す、無常感や哀しみ、達観、しかし抑えることが出来ない激情・・・・・情熱と冷静の間がプロであるからこそ、絶妙です。人は命を危険を伴う抑圧を受けると、いったいどうなるのか・・・・・そのオンパレードと行った歌詞を持つこの作品に対し、十分な理解と共感をもった解釈をし、演奏で現出させているように思います。




聴いている音源
ドミトリー・ショスタコーヴィチ作曲
交響曲第14番ト短調作品135
アッラ・シモーニ(ソプラノ)
ウラディーミル・ワネエフ(バス)
ルドルフ・バルシャイ指揮
ケルン西部ドイツ放送交響楽団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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