かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ショスタコーヴィチ 交響曲全集8

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、ショスタコーヴィチ交響曲全集を取り上げていますが、今回は第8集を取り上げます。第12番「1917年」が収録されています。

第11番に続き、第12番もロシア革命をテーマにした作品です。

交響曲第12番 (ショスタコーヴィチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC12%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

第11番が重々しさや、激しさが前面に押し出されていたのとは異なり、祝祭感もある作品であることは間違いなく、体制迎合の作品の傾向はあるでしょう。しかしそれはショスタコーヴィチ社会主義を単に支持していたということであり、ようやく国家による抑圧が緩んだ証拠だとも言えます。

ですから、私の意見としては、単なる体制迎合の作品として、低評価にするのはおかしいと言えます。この作品は明らかに、ショスタコが寄って立つ音楽が何であるかを、典型的に見せた作品だと言えるからです。

ショスタコは、元々保守的な作曲家です。その上で、ロシア・アヴァンギャルドの影響を受けた人です。つまり、古典と前衛が彼の中には同居しています。この作品はその両面の内、古典という側面が強く打ち出されています。

共産党大会という、祝祭舞台に間に合わせるという視点でこの作品を見た場合、古典となる作品があります。それが、昨年中大オケも演奏した、チャイコフスキーの大序曲「1812年」です。

1812年 (序曲)
http://ja.wikipedia.org/wiki/1812%E5%B9%B4_%28%E5%BA%8F%E6%9B%B2%29

え、関係あるの?と言われるかもしれませんが、もう一度ウィキのページで失礼しますが、ショスタコーヴィチの生涯を俯瞰してみましょう。

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81

1919年に、彼はペテルブルク音楽院に入学していますが、その先輩に、チャイコフスキーがいるのです。

サンクトペテルブルク音楽院
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E9%99%A2

この「1917年」はロシア革命の歴史において、「十月革命」と言われるものを取り扱っているわけですが、ロシア革命には二つの段階があります。民衆の虐殺に対し、兵が反乱を起こし、帝政を倒したのが「二月革命」であり、その結果成立した政府をさらに民衆も加わって倒したのが、十月革命です。

十月革命
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%9C%88%E9%9D%A9%E5%91%BD

実際に、この十月革命をきっかけにして、ロシアは内戦に突入するわけですが、この二つの革命には、兵士も参加しているという点が重要なのです。ですから、第12番には明らかに闘いのシーンが出てきます。それは多分に、チャイコフスキーの「1812年」を意識しています。各楽章はつながっていますが、激しいシーン、穏やかなシーンが混在します。それは構造的には、「1812年」にそっくりです。最後、明るくファンファーレでおわるのも共通しています。

このことから考えて、私はこの第12番は多分に、「1812年」を念頭にしていると判断するのです。しかし、表立ってそれを表明すれば、ショスタコーヴィチ帝政ロシアを支持していると取られかねません。ですから、巧妙に隠すために、各楽章に標題をつけ、それらしい音楽を付けたのです。

これまでのショスタコの「語法」から考えて、この作品も単純ではないと私は考えます。なぜなら、ショスタコーヴィチ自身も、十楽革命の結果成立した政府の暴力性の被害者だからです。それが一言でいえば、生命の危険すらある抑圧であると言えます。そのために精神的に病んでしまった彼の来し方を振り返れば、単純であろうはずがありません。たとえ、ようやく訪れた、平穏な時期であったとしても・・・・・

その心の傷という視点からこの作品を見てみると、実は体制迎合に見えて、反体制音楽であるとも言えるのです。つまり、作品を1812年の「パロディ」(バロック的な意味での)だと考えれば、単純な体制迎合ではなく、そこに反体制の意味合いも込めた、まさしく「あっかんべー」の作品であると言えます。

バルシャイは、オケにはあまり熱くさせないで演奏させています。つまり、必死に「情熱と冷静の間」を取らせようとしています。それはそれまでの、ドグマ全開とは多少異なるものです。まるでこの第12番という作品は、単なる体制迎合ではないよと私たちに言いたいがためのようにすら思えます。確かに、構造をよく見てみれば、まさしく単純に体制迎合とは言いがたいなあと思います。

音楽を単なる快感としかとらえなければ、そういった表層的な解釈も可能かもしれません。しかしもっと知的に、掘り下げて構造までに注目してみれば、そこには体制迎合の明るさとは別な面がはっきりと浮かび上がってきます。まるで、映画音楽のようなこの作品に込めた、ショスタコのメッセージとは?と、深く考えさせる演奏となっています。




聴いている音源
ドミトリー・ショスタコーヴィチ作曲
交響曲第12番ニ短調作品112「1917年 レーニンの思い出のために」
ルドルフ・バルシャイ指揮
ケルン西部ドイツ放送交響楽団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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