かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ショスタコーヴィチ 交響曲全集4

神奈川県立図書館所蔵CD、シリーズでショスタコーヴィチ交響曲全集を取り上げていますが、今回はその第4回目。第4集の収録曲である第7番「レニングラード」を取り上げます。

この第7番をこのブログで取り上げるのは初めてではありません。ダズビの定期演奏会を取り上げた時に、取り上げています。

コンサート雑感:オーケストラ・ダスビダーニャ第19回定期演奏会を聴いて
http://yaplog.jp/yk6974/archive/930

その時にも触れていますが、この作品は、評価は様々です。

交響曲第7番 (ショスタコーヴィチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC7%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

上記エントリで、私はこう述べています。

「『レニングラード』は当初のショスタコーヴィチの発言から政治的に使われることが多かった曲です。そのために評価が低い時期もありました。しかし、ショスタコーヴィチが当時置かれた立場というものを考えた時、私は果たしてソビエト共産党プロパガンダ曲という評価でいいのかと考えるようになりました。

実は私も大学生の時にはそんなように考えていた時期がありました。しかし、最近では実はもっとショスタコーヴィチの語法は複雑で、レトリックを使った反体制を歌った音楽なのではないかと考えるようになりました。

この演奏会が開かれることを知った当初、実は私は神奈川県立図書館でショスタコーヴィチ交響曲全集を借り終えたあたりでした。当然聴きながらウィキの記述などを読んでいますが、ショスタコーヴィチほど表面的な音楽で判断してはいけないという評論が多いのも事実です。わが国でそういった評論が多いことは、私はとても幸せなことであると思います(また、それができるということこそ『独立国』ならではだと思います)。」

この評論がなぜ出てきたかと言えば、その前にこの音源を聴き、ウィキなどを検索し、文章を読み様々考えたからです。それなしに、この評論はあり得ません。ショスタコが政治的な抑圧で苦しみつつも、なお祖国を想う作品をなぜ紡いだのかを考えるのに、この「レニングラード」こそ適切な題材はないと私は考えています。

恐らく、そもそも社会主義者であったショスタコは、社会主義国としてのソ連が、なんと自らの権力者によって破壊されていくのを忸怩たる思いで見ていたことでしょう。スターリンは現在でも、社会主義者の間でも正当なレーニン主義の権力者ではないと言われていますし、おそらくその評価が覆ることはないでしょう。ですから、この作品が単なるアンチナチス・ドイツであるというのは、あまりにも表面的過ぎると言わざるを得ません。

第1楽章に置いては、むしろダズビの演奏のほうが激しさを持ちますが、このバルシャイのものは、むしろ第2楽章の憂いなどが、美しいが上にはかなさを感じます。それだけ、作曲者ショスタコの、心の内に迫った演奏であると言えます。だからといってダズビがそうではないと言いたいわけではないんですが。ダズビだって迫ろうとしていますし、そのことでこのバルシャイに引けを取らない演奏を実現していますが、そこはやはりアマチュアオケとしての限界もある訳です。それでも、ダズビの演奏は乗り越えるだけの演奏者の「想い」が乗り移っている、名演なんですが・・・・・

このバルシャイのものは、さすがプロオケ故の、アインザッツの使い分けでしなやかで力強く、美しくそして哀しく、しかし最後は希望が見える音楽になっています。然しその分、ダズビに見られるような、情熱というものが多少伝わらないかなという気がします。それは指揮者バルシャイが恐らく、ショスタコを知っている故の、様々な考察というものが入っているからだと思います。

つまり、端的にはこういえます。このバルシャイの指揮は、レニングラードという戦火の下で作曲された作品が、実はとても知的で、冷静な作品であるが、内部には様々なドグマを持つ作品である、という視点で貫き通されている、と。一方ダズビは、ショスタコーヴィチの精神的な不安定さにフォーカスしていると言えます。そしてどちらも、素晴らしい演奏が実現されています。

こういった演奏は、ショスタコーヴィチの作品の理解に、とてもいい題材だと思います。やれ抵抗だ、やれ「犬」だ、なんて議論は不毛だと思えるからです。勿論、ショスタコーヴィチの作品にはそのテーマとして「抵抗」が含まれていないと言えばうそになると思いますが、もっと大きなテーマは、いかに不安を手放すかだと、私は思うからです。そのために時には抵抗を表現し、時には憂いを表現し、時にはおどけてみせますし、時には伝統に回帰(この作品では第3楽章がそれに当たります)してみせます。そうやって、ショスタコは自分を癒してくのだろうと思います。

バルシャイの全集はいいよと言った人たちがなぜ、薦めてくれたの一端を、私はこの第7番で感じ取ることが出来たように思います。同じように不安の中で生きる私にとって、まさしくショスタコは「仲間」であり、その内面をよく表現しているのが、バルシャイだからだよと、私に気づかせてくれるためであったのではないか、と・・・・・・




聴いている音源
ドミトリー・ショスタコーヴィチ作曲
交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード
ルドルフ・バルシャイ指揮
ケルン西部ドイツ放送交響楽団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




このブログは「にほんブログ村」に参加しています。

にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシックCD鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ 合唱・コーラスへ
にほんブログ村