かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:深井史郎 パロディ的な四楽章、ジャワの唄声他

今月のお買いもの、平成26年10月に購入したものをご紹介しておりますが、今回はディスクユニオン新宿クラシック館にて購入しました、ナクソスの深井史郎作品集を取り上げます。

日本人作曲家ですから、ナクソスなら当然日本作曲家撰集のシリーズという事になります。が、深井史郎という作曲家をご存知の方はどれくらいいらっしゃいますでしょうか。少なくとも、このブログでは初登場になります。

深井史郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E4%BA%95%E5%8F%B2%E9%83%8E

えー、このページは基本CDブックレットを凝縮したものになっておりますので、もんだ・・・・・・

と言っても、深井史郎を比較的詳しく説明しているのはネット上ではウィキだけなので、仕方ありません。

CDブックレットというのは、当然ナクソスのものになります。下のほうに片山氏とありますが、それはブックレットの解説を書いているのが片山杜秀氏だからです。私は基本、そちらを参考にして書いて今回は書いております。

さて、この深井史郎という作曲家は、どちらかと言えばフランス音楽の路線になりますが、戦前1930年代はフランス音楽への傾倒が作曲家の間であったのは事実です。それはある意味当然で、ちょうど20世紀という時代は新古典主義音楽が席巻した時代でもありました。

その新古典主義フランス6人組から始められており、となると当然印象派ドビュッシーなどの象徴主義も興味に入ってもまったくおかしくないわけです。実際、後で関連で述べますが伊福部さんもそういった流れの、傍流にいた人であったと言えるでしょう。

まず第1曲目が「パロディ的な四楽章」。どんな作品なんだとお思いでしょうが、まさしくバロディなのです。それは二つの意味で、しかもそれはまさしくパロディという言葉が持つ二つの意味を、音楽で表現したものであると言えます。

4楽章がそれぞれ、ファリャ、ストラヴィンスキーラヴェルルーセルと名づけられており、各々の作曲家の音楽の特徴(ルーセルは必ずしもそうでもないのですが)を「ちょっとおかしく」「引用して」表現している作品です。

そのちょっとおかしくというのが、ふつう現在使われる意味で、引用というのは、ルネサンスからバロックにおいて使われた意味でした。以前、ジョスカン・デ・プレのミサ曲やバッハの世俗カンタータを取り上げた時にもこのブログでは触れていますが、まさしくその意味なのです。

夫々に、作曲者の口上が添えられているのですが、ファリャに対してはスペイン内戦を憂える内容、ストラヴィンスキーに対しては少しネガティヴなな斜に構える姿勢の内容、ラヴェルに対しては音楽をまねたんだけれども下手で「どーもすみません」と林家三平よろしく頭をかくような内容、そしてルーセルは、本来はバルトークとして作曲したけれど、もう一度見直してみれば、音楽の展開はルーセル的なので看板を掛け変えてみましたという内容であるのですが、まさしく音楽もそうなっており、その上で夫々その作曲家の様式を引用している、というわけです。ですから、「パロディ」であるわけです。

これだけ知的な作曲家も珍しいような気がします。ま、友人は少なかったと言いますが、まあ、私の経験上確かにそうですね・・・・・って、何を言わせるねんかー(って、ここだけ関西弁になってもしょうがないですがね)

しかしそれだけに、音楽は私には素直に楽しめる内容になっています。

パロディ的な四楽章
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E7%9A%84%E3%81%AA%E5%9B%9B%%A5%BD%E7%AB%A0

次の作品がバレエ音楽[創造」です。1940年に作曲された作品で、皇紀2600年祝典作品の一つです。

創造というのは、この作品では日本神話における、国づくりを意味します。神々が生まれ、生物が生まれ、人間が生まれる。それが各々の楽章となっていますが、最後の「人間の誕生」では、単に人間が生まれるだけではなく、神と人間が協同して、国を創っていくという、まさしく当時の国家神道を背景にした作品でもあります。第3楽章はパッセージが速い部分もあり、踊るには大変だったでしょうが、当時の現代舞踊を念頭に作曲されたことが想像できます。

ウィキで触れている片山さんの分析はまさにこの作品に対してであり、それは私は的を得ていると思います。というのは、この作品、けっこう旋律線はしっかりとしていて、さらに第3楽章では希望に満ちあふれている音楽であるにも関わらず、最後まるで不安を表現しているかのような和音で終わるのです。恐らく、知的なリベラリストである深井の、精一杯の抵抗だったのだと思います。

最後の3曲目は、交響的映像「ジャワの唄声」です。この作品も作曲されたのが1942年なので2曲目同様、当時の大東亜共栄圏を背景にしていますが、これも深井のリベラルとしてのフランス音楽への傾倒が色濃い作品です。主題になっている旋律はジャワで採集された民謡で、それも19世紀末から20世紀にかけて行われた民謡採集ブームが基礎にあります。その民謡がなんと!日本の旋律に限りなく近く(実際、深井は戦後映画音楽において架空の日本の民謡として使っています)、そのため大東亜共栄圏の正当化に使われた歴史を持つ作品です。

そのためなのか、あまり戦後は演奏機会がなかった作品ですが、今回聴いてみますと、そのモダニズムは素晴らしく、所謂繰り返し(オスティナート)を上手に使い、船が行き交う島々の風景を音楽として描いて見せた作品となっています。これを作品で単純に繰り返すことで強烈で土俗的な作品を生み出したのが、伊福部昭でした。つまり、二人とも、当時のフランス音楽由来のモダニズムの影響にあると言えましょう。ただ、深井はその後伊福部のように所謂チェレプニン派となったわけではありませんが、チェレプニンが提唱したことを自然と音楽とした人であったことは間違いないでしょう。そしてその中に、自分の主張をさりげなくしこんだ人でもあることが、これら3つの作品からわかります。

となると、影響を受けているのはまだいるのでは?と思います。そう、今神奈川県立図書館所蔵CDでシリーズで取り上げている、ドミトリ・ショスタコーヴィチです。リベラルである深井が、迫りくる国家主義にいい印象を持っていたとは言いがたいと思います。しかし愛国者ではあった深井が、それなりに作曲したのがこれらの作品であると言えましょう。

それでも、そのモダニズムは今聴いてもまったく色あせませんし、こういった作品が1930年代から40年代の初めに、我が国で存在したのだという事実を知るに従い、もっと顧みないとという自分がいます。

演奏はロシアのオケですが、そのモダニズムがしっかりとしたアンサンブルによって前面に押し出されているように思います。酔いもせず、しっかりと構造を見据えたうえでの表現は、私たちに、深井史郎という作曲家の、真髄を伝えてくれています。指揮のヤブロンスキーがいいのでしょう。ナクソスの日本人作品の指揮では定番ともいう位置を占めていますが、このCDでもステディな演奏を実現させています。日本人作品であっても、こういった海外オケで遜色ないどころか、かがやいて聴こえるのは、やはりそれだけのモダニズムをもっているという証拠でしょう。

深井の作品は、もっと聴かれてもいいと思いますし、私も気長に追いかけて行きたいと思っています。




聴いているCD
深井史郎作曲
パロディ的な四楽章
バレエ音楽「創造」
交響的映像「ジャワの唄声」
ドミトリ・ヤブロンスキー指揮
ロシア・フィルハーモニー管弦楽団
(Naxos 8.557688J)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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