かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ショスタコーヴィチ 交響曲全集3

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、シリーズでショスタコーヴィチ交響曲全集を取り上げていますが、今回はその第3回目です。交響曲第5番と第6番の登場です。

交響曲第5番に関しては、すでに「マイ・コレ」のコーナーで取り上げています。

マイ・コレクション:ショスタコーヴィチ 交響曲第5番・第9番
http://yaplog.jp/yk6974/archive/305

この全集を借りるところまで至るには、この一枚から始まったと言っても過言ではありません。

さて、まず第5番ですが、上記エントリに比べますと、全体的にテンポがそれほど変わっているわけではありませんが、以下のウィキの項目を読みながら聴きますと、興味深い点が浮かび上がってきます。

交響曲第5番 (ショスタコーヴィチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA_%28%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%29

第4楽章に置いては、明らかにテンポが異なるのです。だからと言って、全体的印象が異なるのかと言えば、そう言えるかは微妙なところですが、少なくとも、ウィキの項目通り、第4楽章冒頭と、コーダの部分は異なっています。

この演奏に置いては、冒頭は遅めです。そしてコーダはさらに遅めです。これはまさしく、指揮者がどんな人なのかで異なっていると言えましょう。ハイティンクは西側ですし、バルシャイは東側です。特にバルシャイの場合、ショスタコーヴィチと交遊があった人です。

ハイティンクの場合、特に「ショスタコーヴィチの証言」が大きな影響を及ぼしている解釈になっていると言えます。冒頭からテンポアップしていき、途中テンポは落ちますが、粘りのある演奏で最期はテンポアップし、ショスタコーヴィチの「悲哀」を表わそうとしています。一方、バルシャイは、「体制とのはざまで苦しみながら、一つの作品を作りあげた作曲家の複雑な内面」を、楽譜に忠実であろうとして表現しようとしています。

私はどちらが正しいとは言えないなあと思います。どちらも味があって、私達にショスタコーヴィチが生きた「時代」と、その苦悩を呈示し、それにより私たちもこの苦悩する現代社会において、資本主義であろうとも共感することが出来るのです。

それでも、このバルシャイの解釈は、ショスタコーヴィチという作曲家が置かれた当時の「立場」というものを、十分に教えてくれるものであると思います。それは恐らく、現在の日本社会においても、いつそうなるかわからないという側面を持つようになってしまったがために、正に今共感を覚えるものでありましょう。

次の第6番ですが、第5番に比べますと多少前衛的な姿勢に変わります。

交響曲第6番 (ショスタコーヴィチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC6%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

バーンスタインの解釈はあくまでも彼の解釈であって、それがショスタコーヴィチと同じであるとは言えないと思いますが、実に示唆に富む指摘であると思います。ショスタコーヴィチは前衛的であっても、基本西洋クラシック音楽の伝統に即しているので、当然ですがベートーヴェンチャイコフスキーという作曲家を意識していることは明らかでしょう。それにしても、第1楽章の苦悩を吐き出すドグマは強烈で、バルシャイは特にそこに力点を置いた演奏をしています。

私は実は、ショスタコーヴィチという作曲家は、「あっかんべーの作曲家」であると定義しています。もう少し難しい言葉を使えば、腹従背身と言えましょう。一見体制に従っているように見せて、じつはそこに様々な反体制的なものを暗号としてちりばめて、作品を仕上げるのでそう定義しています。私は、特にこの第5番や第6番あたりからその傾向が顕著であると思っています。第5番も「最後が短調だったら」というウィキの記載は、まさしくショスタコが一見大勢迎合に見えて実は異なることを示しています。生きるためにそれを選択したのです。

そういう「あっかんべー」が沢山ありますから、当然バーンスタインのように、単純ではないだろうと思っています。第4番において私が楽章構成に着目したのも、ショスタコが単純ではなくあっかんべーであるから、なのです。

勿論、バーンスタインの考え方を否定しませんし、何より大指揮者です。それを否定することは恐れ多いことです。しかし、だからと言って違う視点から見てみることが必ずしも悪いことではありません。第1楽章がやけに長いのは、古典的な交響曲はすべてそうなのです。むしろそこに、メッセージがあるのではと私などは思います。

つまり、第1楽章が長いのはその後の第2、第3楽章の真の意味を覆い隠すことではなく、正に第1楽章に埋め込まれたメッセージを覆い隠すためであると推測することが出来ます。

そこで、この第6番は第4番同様、三楽章制です。その上で第1楽章にはソナタ形式がありません。それをどう解釈すればいいでしょうか?

これは私の私見ですが、かりそめの平和が保たれている、つまり自由は何時崩壊するかわからない、その不安を表現したものだ、と思っています。第2楽章は必ずしもノー天気ではなく、長調の音楽のバックグラウンドで、短調が奏でられていることに注目しています。古典的な第1楽章の頭でっかちさ、そしてフランス風ということで意味されるであろう三楽章制からの「自由」というメッセージ。にも拘わらず前衛的でノー天気さも存在する音楽。

そこから導き出される私の回答は、「不安」という一文字しかありません。一見平和に見えるが、条約などいつ破棄されるかなんてわからない・・・・・という不安です。なぜか?

それは、歴史の事実を見てみればわかります。ドイツはどのようにして第二次世界大戦を開始し、ポーランドへ攻め込んだか・・・・・

第二次世界大戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6

ポーランド侵攻
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BE%B5%E6%94%BB

ドイツは開戦にあたり、二つの条約を破棄しています。一つが1934年にむすばれたドイツ・ポーランド不可侵条約で、もう一つがロンドン海軍軍縮条約です。ひとつならまだしも、ドイツは二つも破り、ソ連の隣国ポーランドへ攻め込んだのです。

如何にソ連との間に不可侵条約があり、それで平和が担保されていようとも、そこはかとない不安は、ショスタコーヴィチであるからこそ付きまとったことでしょう。第6番はその不安を表現し、何とか笑いをつくろうとするショスタコの、精一杯の「過剰適用」であった作品であると考えます。

だからこそ、バルシャイは第1楽章では思いっきりドグマを吐き出させ、他の2楽章では、短調部分もしっかりと演奏させ、その上でノー天気さを前面に押し出しているのであると思います。ショスタコーヴィチと交遊があった指揮者として・・・・・

不安が社会を支配する現代日本において、これほど共感し、寄り添う音楽があるのでしょうか?第九は勿論私が好きな作品ですが、一方で自分も抱える不安に対して、これほど明確に寄り添ってくれる作品にであったことに、幸せを感じています。

ドミトリー、生き残ってくれて、ありがとう。




聴いている音源
ドミトリー・ショスタコーヴィチ作曲
交響曲第5番ニ短調作品47
交響曲第6番ロ短調作品54
ルドルフ・バルシャイ指揮
ケルン西部ドイツ放送交響楽団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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