かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:武満徹 レクイエム

皆様、お久しぶりでございます〜

最近、風邪などが流行っておりますが、私もその余波を受けたようで、体調がどうも思わしくなく・・・・・

まあ、ちょうど一つコーナーの区切りがついたところだったので、たまにはお休みもいいだろうと思い、皆様にお伝えすることなく10日ほどお休みをいただきました〜

で、今日から復活したいと思います(ですので、コメントいただいた方には大変申し訳ありませんが、閉鎖はしません。あしからず〜)。

一応、一週間のコーナー予定は以下のように考えています。

月〜木 「神奈川県立図書館所蔵CD」
金〜日 基本は「今月のお買いもの」、時に「コンサート雑感」、「想い」「音楽雑記帳」など

で、実はですね、先日13日にコンサートをはしごしていまして、まずその雑感からと行きたかったのですが・・・・・

今回はまず、「今月のお買いもの」コーナーを取り上げたいと思います。13日に聴きに行きましたコンサートについては、明日と明後日でご紹介することを予定しています。


今月のお買いもの、9月に購入したものを取り上げています。今回は武満徹管弦楽作品集です。小澤征爾指揮、サイトウ・キネン・オーケストラ他の演奏です。ディスクユニオン新宿クラシック館での購入です。

このブログでは初めて、武満徹を取り上げますが、現在世界で一番知られている日本人作曲家と言っていいでしょう。

武満徹
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BA%80%E5%BE%B9

武満徹
http://www.schottjapan.com/composer/takemitsu/bio.html

音楽の基礎として、ジョン・ケージややルトスワフスキといった無調音楽の作曲家の影響を受けているのは間違いないと思います(彼らの音楽的特徴は話すと長いので今回は省きます。知りたい方はウィキの項目から飛んでください)。しかし、武満の特徴として調性音楽を決して排除していないという点も指摘しておくべきかと思います。

特にこのアルバムでは、武満が決して無調音楽という一言でくくるられるべきではないという一つのメッセージともなっています。武満入門編としての意味合いを持つアルバムですが、このアルバムは実は、武満追悼盤となっています。そのためか、作品の説明がちょっと少ないのが難点です・・・・・とは言え、ネットでそれは十分補えます。

まず、1曲目の「エア」。1995年に作曲されたフルート独奏曲ですが、エアとはよく名付けたなあと思います。エアとは空気という意味もありますが、「アリア」という意味もあります。これはブックレットにも載っている武満さんの言葉ですが、なるほどと思いました。作品はまるで「空」に「気」が入った、まさしく「空気」を表現しているフルートによる「アリア」のような曲だからです。

言葉遊びと言ってはそれまでですが、私はなぜ言葉遊びの題名をつけたのかに注目して聴きました。これは音楽的には現代音楽ですが、バロック期のレトリックにその源流がある作品であるというメッセージが込められてもいると私は判断しています。その視点で聴きますと、なぜか頭に曼荼羅が浮かんでくるから不思議です。

勿論、どのような想像をするかは個人に任されています。だからこそ、「エア」なのだと思います。

2曲目は「系図」。1995年にニューヨーク・フィルハーモニック設立150周年を記念して委嘱された、語りとオケのための作品です。これはとても珍しい作品だと思うのですが、そんなことをいうと「じゃあ、ピーターと狼は?」といわれそうですが・・・・・

私が「系図」が珍しいと思うのは、ピーターと狼という「音楽物語」、つまりオケ主体ではなくて、語りとオケのために作曲されているという点です。つまり、語りとオケは全く対等です。いわば、モーツァルトのピアノ協奏曲におけるピアノとオケとの関係にそっくりなのです。オケが演奏するその中で淡々と、しかし痛切な想いをもって少女(12〜15歳程度、楽譜に指定あり)が詩を読んでいく・・・・・そのコラボレーションを「味わう」作品です。

不思議なことに、それは曼荼羅のように私たちの心に訴えかけてきます。音楽は決して激しくないのに、語りと音楽が混然一体となって、私たちを包み込んでいきます。そしていつの間にか、詩が表現している世界に私たちは降り立っているのです。

これは不思議な作品だなあと思いました。ベートーヴェンのように荘重で重厚な音楽ではなくても、これほど心を動かされる音楽があるのだと、実感した瞬間でした。言葉とは、これほど強いものなのかと、合唱出身でありながら実感した次第です。もしかすると、武満氏は日本人が「言霊」を大切にする民族であるということをしっかりと認識したうえで作曲したのだろうかと思います。

ナレーションが今はすこし大人の色気全開の遠野なぎこ(当時の芸名は遠野凪子)であるのもいい味出しているように思います。純真な少女の切々たる言葉が、オケの調性感がある音楽と混然一体となって、私たちを引きずり込んでいきます。彼女もこんな作品にかかわっていたのですね。ちなみに、日本初演時のナレーションも彼女でした。

この「調性感ある」という点はこの作品で重要で、彼が決して調性無視、或いは調性は過去の遺物であると考えていたわけではないということがはっきりしているからなのです。実際、私は大河ドラマのファンでもありますが、武満氏は大河ドラマの主題曲も作曲していますし、また映画音楽も数多く作曲しており、そのなかには調性がはっきりしているものも数多く存在するからなのです。

マイ・コレクション:NHK大河ドラマ主題曲集「独眼竜政宗
http://yaplog.jp/yk6974/archive/291

3曲目は「エクリプス(蝕)」。1966年に作曲された尺八と琵琶のための音楽です。邦楽器を使った現代音楽と言えるかと思いますが、私はこの作品に普遍性を感じます。それは、尺八と琵琶という編成です。尺八はいわばバロック期のフラウト・トラヴェルソに例えることが出来るでしょう(楽器としては全く異なりますが、役割が一緒です)。一方琵琶は、チェンバロです。つまり、琵琶は通奏低音部を担当していると考えられるのです。

私たち日本人にとってはそれほど驚かない編成ですが、こういった編成はクラシックにも存在しますから、海外の方はびっくりするでしょう。クラシックの伝統がない国で、それに相当するような編成が、自国の楽器で可能であるということを、見事に証明してみせたのですから。題名はカッコの邦題と同じ意味を持ち、むしばむから転じて日蝕を意味するように私は解釈しています。なぜか私には平安期の陰陽道の世界が現出されているように感じます。いや、だからこそ作曲者は「エクリプス」という題をつけたのではないかとさえ思うのです。

さて、その「エクリプス」が普遍性を持つきっかけになったのが、4曲目の「ノヴェンバー・ステップス」なのです。実は作曲のきっかけは、小澤征爾がニューヨークでバーンスタインに「エクリプス」を聴かせたことだったのです。バーンスタインはその作品に感動し、尺八と琵琶による「協奏曲」の構想を小澤に持ちかけます。そこでニューヨークフィルハーモニック創立125周年記念の委嘱作として、1967年に作曲され初演されました。初演時の演奏はオケがニューヨーク・フィルハーモニックだっただけで後はこのアルバムの演奏者と同じです。

この作品は、有名で中学校の音楽鑑賞の時間でも取り上げられますが、この作品を理解するためには、筝楽の知識と19世紀から20世紀にかけての音楽史の素養があったうえで、それをいったん棚上げして聴く「素直な心」が必要です。むしろ、教養よりも「素直な心」がまずあるべきかもしれません。

ノヴェンバーとあるのは、この作品が11月に初演されたことにちなみますが、それだけではなく、11月から転じて11という数字を聴衆に意識させる目的があります。ステップスとは、段(複数形)のことであり、つまり「11月に聴く11段の曲」という意味なのです。段とは、クラシックではなく筝曲で使われる楽章的な区切りのことです。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B5

その上で、この作品は筝曲のうち「段もの」を意識している作品ですが、しかしこの作品には箏が出て来ません。邦楽器はエクリプスと同じ尺八と琵琶だけです。そもそも、エクリプスの編成でという希望があったためです。しかし、この作品は筝曲の様式でもって協奏曲を形作っています。

箏曲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%8F%E6%9B%B2

では、箏は何?と言えば、それはオーケストラなのです。上記で言いましたが、この作品は筝楽の様式の「協奏曲」です。ですから、クラシックそのものの協奏曲とは雰囲気が異なります。ただ、クラシックの編成に置き換えることはできます。尺八はフラウト・トラヴェルソ(あるいは、オーボエなどでもいいでしょう)、琵琶はチェンバロ、オケは弦楽です。となれば、これははっきりとバロック期の協奏曲の編成です。しかし、音楽は尺八と琵琶の音が前面に出ている作品で、メロディアスなものとは一線を画しています。

これはどこかで見たような様式です。そう、新古典主義音楽です。いわば、日本版新古典主義音楽だと言っても差し支えないと思います。そもその、筝曲の段ものを、尺八と琵琶、オケで表現しているのですから。

その上で、音楽に素直に耳を傾けてみますと、この作品の新たな地平が拡がってきます。無常観というか、無限という表現が適切かもしれません。それはまた、新古典主義音楽が生み出されるきっかけになった、象徴主義音楽にも通じるものでしょう。実は、武満さんは作曲時、ドビュッシーなど象徴主義印象派といった作曲家のスコアを参考に作曲しています。ウィキにはこうあります。

「作曲に集中すべく武満が軽井沢のアトリエに来た際、その手元にはドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』と『遊戯』の楽譜を携えていたという。これは単なる逸話ではなく、実際にドビュッシーの音楽のような立体的な響きを武満が常に意図していたことが窺える。」

クラシック音楽というのは、基本的に横で縦の線を合わせます。つまり、周りの音を聞きながら全体を作りあげていく手法です。しかし、作曲時には縦の線、つまり和声を重視します。一方邦楽は、縦の線のみです。そのぶつかり合いが織りなす綾を楽しむ芸術と言ってもいいでしょう。それが混然一体となって、立体的になった時、どんな世界が現出されるのかを追求したのがこの作品です。

つまりは、洋の東西の音楽史の果実を、ここでぶつけ合っているのです。その意味では、まさしくこの作品は協奏曲であると言えましょう。しかし、それはクラシックの古典的な意味におけるものではないということは、付記しておきます。

最後が、「弦楽のためのレクイエム」。武満氏が亡くなられた時にも演奏されたこの作品は、このアルバムの中では一番古い作品で1957年に作曲されています。その時代精神故、ルトスワフスキの「チェーン」のような印象もある作品ですが、実はこの作品はそのタイトルの通り、交友のあった作曲家、早坂文雄を偲んでつけられています。

弦楽のためのレクイエム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A0

ウィキには、この作品の稚拙さなどが列挙されていますが、アレグロがかけないとか少しその論も稚拙であるような気がします(まあ、わたしが言う資格はないかもしれませんが)。というのは、たとえばこれはあくまでもレクイエムの意味で作曲した作品ですから、アレグロ表記はどうなのだろうと考えるからです。

私たち日本人が、果たして葬式でテンポの速い音楽を好むでしょうか?以前、合唱団でも年末にレクイエム(フォーレ)なんてと言われてしまったくらいなのですが・・・・・私には、そうは思えないのです。だからこそ、レントを並べたということもあるかと思います(もちろん、作曲技法の稚拙さもあったのでしょうが、それだけに終始するのは建設的ではないように思われます)。

演奏面ですが、小澤氏とオケが演奏する自国の作曲家の作品は、とても端正です。「系図」では、家族のつながりが語られることから熱くなりがちだと思うのですがそれがきちんとコントロールされ、それゆえに私たちの心を貫いて行きます。また、尺八と琵琶ですが、特に尺八は息つぎが難しいとされている楽器で、音が出るまでに何年もかかるという楽器ですが、それがきちんとコントロールされているのはさすがベテランだと思います。その技術から繰り出される、幻想的で、聴き手が自由に想像できる世界は、再び述べますが、無常、或いは無限といった表現が適切かと思います。

まさしく、「色即是空、空即是色」と言ったところでしょうか。現代音楽的な和音の中で飛び出してくる尺八と琵琶は、どうしても仏教的な世界観(蓮華蔵世界)を想像させます。その世界の中で、いったい何が「ある」のか・・・・・私たちに問いかけてきます。



聴いているCD
武満徹作曲
エア
系図
エクリプス
ノヴェンバー・ステップス
弦楽のためのレクイエム
オレル・ニコレ(フルート)
鶴田錦史(琵琶)
横山勝也(尺八)
遠野凪子(ナレーション)
御喜美江(アコーディオン
小澤征爾指揮
サイトウ・キネン・オーケストラ
(フィリップス PHCP-1493)



このブログは「にほんブログ村」に参加しています。

にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシックCD鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ 合唱・コーラスへ
にほんブログ村

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。