かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ハイドン交響曲全集6

神奈川県立図書館ハイドン交響曲全集の第6回目は、第21番から第24番までをとりあげます。

今回も以下のサイトを参考にしています。

ハイドン交響曲
http://www.kanzaki.com/music/mw/sym/haydn

この4曲とも、実はエステルハージ家副楽長時代の作品で、実際にはもう10番くらい後の作品となります(21番が実際は32番目。108番まで数えた場合)。しかもこの時期では珍しいことに、ここは順番に作曲されています。

まず第21番ですが、これは続く第22番とセットでかたるほうがいいでしょう。というのも、はたまたこの二つの交響曲は第1楽章が緩徐楽章だからです。そしていずれも第1楽章は第2楽章の前奏部としての役割をもち、その上で形式的には緩徐楽章と急楽章をひっくり返した形になっているからです。

こういった点の解説がなかなかないのですが、大バッハの息子達やもっと古いバロックシンフォニアを聴きますと、この形式はなるほどな〜と思います。「交響曲様式の模索」であると同時に、古い様式を生かしながら新しい形式を生み出していく、いわば実験場であったと考えられます。モーツァルトPDCAを回したのであるならば、ハイドンは研究開発だったと考えていいでしょう。

その結果生み出された佳曲が第22番「哲学者」だと私は思います。特にこのフィルハーモニア・フンガリカの演奏で顕著なのはイングリッシュホルンでして、それは第22番の最大の特徴でもありますが、それがまさしく「哲学者」という名前にふさわしいのです。だれが付けたか知りませんが、言いえて妙です。

第21番にも、第3楽章メヌエットに特徴があり、モーツァルトアイネ・クライネ・ナハトムジークそっくりのフレーズが出てきます(そういえば確かに、サイトで言及がなされている通り同じメヌエットです)。果たしてモーツァルトは第21番を意識して作曲したのかどうか?東京書籍「モーツァルト事典」では言及がなされていません。しかし、そのセレナーデはセレナーデなのにもかかわらず4楽章なのですね。最近の研究で実はメヌエットがもう一つとトリオが存在したことが分かっています。しかしなぜそれは紛失したのか?

こう考えるのには理由があります。実はアイネ・クライネ・ナハトムジークには昔から交響曲なのではという疑惑が付きまとっています。史料からしますと確かにセレナーデで正しいわけなのですが、初版のときから失われていて4楽章であるということを考えますと、もしかするとモーツァルトハイドンのこの第21番を念頭に作曲したのかとも想像してしまいます。だからこそ、セレナーデなのに4楽章とした・・・・・実に楽章構成は交響曲していますし(急〜緩〜メヌエット〜急)。確かにハイドンの第21番ともし関係があるのであるならば、疑惑は確信に変わる可能性も秘めています。

第23番と第24番はともに4楽章構成のきちんとした交響曲となっていまして、冒険心はみじんもありません。むしろがっちりとした構成で、聴く者をうならせる、美しさを前面に出している作品です。この2つづつのコントラストは面白いですね。ともに4楽章なのに、二つずつ違っていて、あきがきません。特に第23番第1楽章の旋律は下降音形が特徴的で、聴く者をぐいぐいと引き込んでゆきます。

それにしてもハイドンは本当に形式を自由自在に使って素晴らしい音楽を作り上げているなと思います。その視点から考えますと、意外にもモーツァルトは形式という点からすればそんなに革新的なことはやっていないことに気が付かされます。なぜ今欧米ではハイドンなのかが、こんな点から垣間見えます。

ハイドンは「前衛」作曲家・・・・・その視点は、重要だなと思います。



聴いている音源
フランツ・ヨゼフ・ハイドン作曲
交響曲第21番イ長調Hob.I-21
交響曲第22番変ホ長調「哲学者」Hob.I-22(第1版)
交響曲第23番ト長調Hob.I-23
交響曲第24番ニ長調Hob.I-24
アンタル・ドラティ指揮
フィルハーモニア・フンガリ



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