かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

マイ・コレクション:小澤とサイトウ・キネンの「悲愴」

今日のマイ・コレは、小澤征爾指揮、サイトウ・キネン・オーケストラが演奏する、チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」です。

これを買う以前から、チャイコフスキー交響曲はまず4、5、6番をそろえておきたいとの希望を持っていたのですが、どの演奏で買うかがこれまた悩んでいました。いいものはあまたありましたが、いざ買うとなった時に限ってあまり選択肢がないものです・・・・・

これも、そんな時に買った一枚ですが、今ではお気に入りの一枚です。小澤の評価はいろいろありますが、しかしこの悲愴の演奏にはかなりのエネルギーが込められています。それはちょっとやそっとではわかりません。とても悲しいことに出会った時、この演奏を聴くとわかるのです・・・・・

わたしの場合、それは母を失った時でした。単に悲しい曲とばかり思ってきたこの曲に、これほどまでのドグマがあったのかと・・・・・

そう、ドグマなのです。チャイコフスキーも書簡で語っていますが、この曲には彼の全人生が込められている・・・・・それがようやく分かったのは、このCDを買って数年。母を子宮頸がんで失った時でした。小澤の演奏は淡泊に見えて、じつはものすごいエネルギーをもっていたのです!

もし、変態演奏(つまり、別の演奏家の名演)であったなら、私はこの曲を聴くことを拒否していたでしょう。小澤の一見すると淡泊に見えるこの演奏だからこそ、何とか聴くことが出来たのです。それが、私の魂をかろうじて救ってくれました。

人の死を経験したものの魂をこれほど揺さぶり、そして慰めてくれることで魂を救ってくれる音楽はそれほどないでしょう。チャイコフスキーの「悲愴」もそのうちの一つなのです。それを無視した演奏は私にとっては聴きたい演奏ではありません。それがもし人の死に直面し、その人を感動させることが果たしてその演奏は出来るのか、私には疑問です。

この悲愴はチャイコフスキー最後の交響曲であり、まさしく彼が人生をかけ全身全霊を持って作曲した交響曲です。それゆえになかなかいいものが出来上がらなかったようで、その一つとしてスピンオフの産物がかつて取り上げましたピアノ協奏曲第3番です。それを聴いてからずっと悲愴がほしいと思っていましたが、もしほかの演奏だったら、もしかすると私はこの曲を嫌っていたかもしれません。

親しい人の死は、それくらい爪痕を残してゆくものです。それを乗り越えるまでは長い時間を必要とします。この曲のこの演奏ですら、私は乗り越えるのにほぼ8年かかっています。いかにいわゆる「名演」と言われている悲愴の演奏を聴くことが出来るということが幸せなことなのか・・・・・

恐らく、その演奏はエネルギーがありすぎるのです。それはそれで素晴らしいことだと思いますが、それゆえに伝わらないこともある、ということです。その演奏を聴き手が拒否してしまっては、どうにもなりません。一度きりのライブならそれでもいいでしょう。しかし、CDで残すとなると、それは基本的に繰り返し聴く、ということを前提にすべきなのでないかという気がします。

ある指揮者はそれを前提にライヴとスタジオとはスタンスを変える人もいます。それは私は正しいやり方だと思います。記録に残すということは、どんな精神状態でも聴けるということを前提にするほうが良いと私は思っています。そういった側面から考えますと、古典派の音楽が規定しているものは、とても理にかなっているなという気がします。

この演奏で特にそのテクストを感じるのは、第1楽章と第4楽章ですが、もちろんそれ以外の楽章も日本人特有の「バランス感覚」で貫き通されています。その点はこの演奏はあまり評価されていないように思います。どんな精神状態でも魂を救う・・・・・

そのテクストを貫き通しているこの演奏は、私は誰がなんと言おうとも、名演であると断言します。



聴いているCD
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲
交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」
小澤征爾指揮
サイトウ・キネン・オーケストラ
(PHIPS PHCP-1497)※現ユニヴァーサル



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