かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ドヴォルザーク 交響曲第6番・序曲「オセロ」

今週の県立図書館コーナーは共にドヴォルザーク交響曲を取上げます。今回は、交響曲第9番と序曲「オセロ」のカップリング。指揮はオトマール・スウィトナー、演奏はシュターツカペレ・ベルリンベルリン国立歌劇場管弦楽団)です。

これは昨年の2月に借りています。そのときに一緒に借りているのが明日取上げます第7番と8番、そしてベルリオーズのレクイエム、ハイドンのミサ曲、そしてベートーヴェンのピアノ・ソナタというラインナップです。

5番を聴いてよかったため、本格的に図書館で借りてそろえようと決心した現われは、ほとんどが全集の一部を借りているという点にあります。実は、ベルリオーズ以外は全集からの一部なのです。ベートーヴェンのピアノ・ソナタへの衝動、ハイドンへの興味。そして、「鉄」としてのドヴォルザークの音楽へのあこがれ。そういったものが私を駆り立てていました。

この6番を借りたのは運命としかいいようがありません。2番、3番を借りても良かったはずですから。でも、私はまず後期の作品群をそろえることからはじめました。それはやはり、5番と8番というある意味ドヴォルザークが祖国の鉄道風景を表現したとも取れる曲に鉄道ファンとして興味を感じたからに他なりません。

ところが、そのほぼ同時期に、mixiのコミュ「クラシック同時鑑賞会」において、ドヴォルザークの第6番が取上げられたのです。指揮とオケは違いますが、すでに6番を聴いていた私としますと、なんという偶然だろうと思いました。

何を借りるかなんて、私はほとんど口外しません。どうしても借りたいというものはすこしmixiでも日記で書いてきましたが、ほとんどは全く口に出しません。それなのに、ほぼ同時期に同時鑑賞会で取上げられる・・・・・

その主催者の方も何をレファレンスしているかなんて、そうそう口外なさらない方です。それなのに、まるでシンクロするように取上げられる・・・・・・

運命としか言いようがなかったです。そして、その鑑賞会での演奏もすばらしかったため、完全にドヴォルザークは全て借りよう、そろえよう、それをしばらく優先しようと決めました。そのため、しばらくはドヴォルザークハイドンベートーヴェンを借りる日々が続くことになります。

このスウィトナーの指揮とオケの演奏は端正でかつテンポもよく、アンサンブルもすばらしいです。かつてナクソスの全集と比べたことがありましたが、金管も吼えていてかつ安定していますし、祖国オケチェコ・フィルと遜色ありません。さすが旧東独の国立歌劇場です。

これが国立歌劇場のクオリティと言っていいと思います。それは何も旧東独に限りません。西側のオケも少なくとも国立歌劇場オケというのはすばらしいものが少なくありません。それは、その国の音楽の最高峰という意識が団員にも、さらにはその予算を組む国家にも、国民にも、ファンにもあるからです。

ただ、近年はシュターツカペレ・ベルリンも少しクオリティが落ちたかなという点も否めませんが、この時期は国家を代表するオケです。西側のベルリン・フィルの向こうを張るオケだったのです。その誇りがすばらしいアンサンブルへと結実しています。

ただ、第3楽章で多少崩れ気味になっているのが残念ですが・・・・・でも、充分鑑賞に堪えうるレヴェルです。

その背景として、国家の保護だけではなく、裾野にいるアマチュアも含めた大勢の音楽家の存在を忘れてはならないでしょう。しかしそれがやがて、東独の崩壊へと結びつくことになります。解説書には、録音年月を1979年から1980年と記載しています。つまり、東独の崩壊はこの演奏の約10年後なのです。

日本の場合、もしかすると自民政権がそれを嫌がった、という側面があるのではないか・・・・・国立歌劇場を作っても、そこにオケを常設しなかったというのはそんな背景すら見え隠れします。ベルリン国立歌劇場の演奏を聴きますと、そんなことすら考えてしまいます。民主の政策は、単にそれを引き継いだに過ぎない・・・・・

「オセロ」の演奏は鬼気迫るものすらあるのですが、それを聴いてしまうと余計にそんなことを考えてしまうのです。



聴いている音源
アントニン・ドヴォルザーク作曲
交響曲第6番ニ長調作品60
序曲「オセロ」作品93
オトマール・スウィトナー指揮
シュターツカペレ・ベルリンベルリン国立歌劇場管弦楽団
(元CD:徳間ジャパン ドイツ・シャルプラッテン 32TC191)