今日は、K.259「オルガン・ソロ・ミサ」です。ベネディクトゥスにオルガンの独立したオブリガードがあるため、それがまるでオルガン独奏のようなのでその名がついています。
この曲は構成がすばらしい曲の一つではありますが、なぜハ長調になったのかがよくわかりません。弦にはヴィオラがないのでミサ・ブレヴィスであるのは確かなのですが、ハ長調というのが・・・・・
これも、シュパウア・ミサと関連が考えられている曲なので、そのあたりと関係があるのかもしれません。キリエからグローリアまではあっという間に過ぎ去り、クレドでは前作で堂々たる展開を見せたのが磔刑の場面と復活は一気に演奏されますし、ある意味、今までの構成に戻った感じです。
しかし、この曲には実はキリエに前奏があります。これは彼のミサ・ブレヴィスでは珍しいことで、私はこの前奏からもしかするとこの曲もまず構想段階ではミサ・ソレムニスとして考えられていて、すでにキリエが一部完成していたのではないか、と推理しています。彼のミサ・ブレヴィスはトゥッティで始まるものが多いので・・・・・
実際、彼はこのあたりからミサ曲にはかなりの自信を深めてきていて、内容が深く、すばらしいものが多くなります。単に明るいのではなく、それは透き通り、まるで青空のようです。その一方、短調の深みはもっと増し、そのコントラストを転調のすばらしさが際立たせています。
それでいて、全体の時間は16分ほど。私が聴いているウィーン・コンツェントゥス・ムジクスではなんと14分台をたたき出しています。それは決してものすごい快速であるわけではありません。それでいて14分台と、彼は確実に大司教コロレドの課題を達成しつつあったのです。何しろ、給与はそこから出ているわけですから・・・・・
必死さが伝わってきます。でも、音楽自体はとにかく明るく、キリストを賛美するのにふさわしいものです。うわー、僕大変だーというのは微塵もなく、そこがすばらしいのです。ケッヘル番号200番台はそういう作品が多くなってくるのです。100番台とは確実に差が出ています。
この曲でもフーガは使わず、重唱とカノンだけで構成しています。むだをそぎ落とすという彼の方針が完全に貫かれています。にも関わらず、つまらなくない。そこに、彼の目指した理想を見ることができます。
構造的に単純でも、すばらしく美しい音楽はつむぎだすことができる・・・・・それが、彼がミサ曲で見出した境地だったのではないでしょうか。
この曲は実は専門家の間ではそれほど評価の高い曲ではないのですが、私はそれでいいのかなあと思っています。確かに真新しいことをやっているわけではありませんが、現代の古楽演奏ではほぼ最速とも言うべき時間をたたき出しています。ということは、もしかするとそれは初演時でも同じだった可能性があります。それは当時の人たちからすれば、ものすごい驚きだったでしょう。また、モーツァルトが確実に成長していることも感じ取ったことだと思います。
彼はこの一連のミサ曲群を作り上げてから、ウィーンへ出ることを決断しますが、その自立の思いすら、私にはこの曲からは感じ取ることができるのです。