かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第16番ヘ長調作品135

今日は、ベートーヴェンの弦四第16番です。え、とうとう最後ですねって?いやいや、実はまだもう1回だけあるんです、はい。

しかし、この曲がベートーヴェンの弦四最後の作品であることは確かです。以降に作曲されたのは第13番の第4楽章だけですから。

ここでは、完全な4楽章形式へ戻っています。しかし、緩徐楽章とスケルツォの並びは逆転は逆転しました。このあたりは、何となく第九で実験したものを実行したような気がします。こういうところでも、musiker氏の指摘は当たっていると私は思います。

音楽は深遠な部分もありますが、全体としてはとても明るく、これが最後の作品なのかと思うくらいです。ほぼ最晩年のはずです。不慮の病気にならなければ、まだまだいけた作曲家であると言うことを雄弁に語っているように思います。

聴いていて、私としてはこみ上げてくるものがありました。私はこんな風に人生の後半へ差し掛かったとき、生きることができるだろうか、と。

第1楽章の颯爽とした音楽。これって、作曲されたの彼が50代の時ですよ!かなり刺激を受けます。

ただし、ヴォリュームはすくなくなり、演奏時間も26分ほどと短くなっています。その理由を年齢に求めることができるのかどうか、それはわかりません。

全体として室内楽的な肩のこらない音楽に支配されており、その中に深遠な部分もある、というなんとも魅力的な音楽です。びっくり箱もたーくさんあり、ベートーヴェンがにやりとするのが目に浮かびます。

さて、演奏のアルバン・ベルク四重奏団は結構おとなしく演奏しているような気がします。ただ、私はこの曲はもしかするとスメタナよりこのアルバン・ベルクのほうが本質を突いているのではないかと言う気がします。勿論、この曲に関しましてはまだスメタナの演奏を聴いていないのでなんともいえませんが、音形等からしますと、アルバン・ベルクの演奏スタイルのほうが彼の言いたいことを言っているように感じるのです。

それでいて、この曲では静かな部分は徹底的に静かで、特に第3楽章は聴いていて涙が出そうになります。私の人生最後の時には、この曲を演奏して欲しい、そんな気にさえなります(勿論、まだまだ若いですけどね)。暗いのではないのですが、とても明るいのに深遠な曲です。遠くを見ているような、そんな気さえしてきます。人生を振り返る。そんな楽章なのかもしれません。さすがにこの楽章には彼の年齢を重ねることができるように思います。この部分は、是非スメタナと聴き比べたいですね。

でも、第4楽章ではそんなことも関係なく、楽しく時間が過ぎてゆく、そんな音楽で終わります。けれどなんとも切ないです。とても楽しい音楽なのに、せつな過ぎます。それは私たちが彼の運命、つまり寿命を知っているからかもしれませんが。

彼は1827年3月26日に死去します。雨で風邪をこじらせ、肺炎をわずらったことが原因です。もともと晩年は病気がちだったようですが、曲自体はそれほど彼の待ち受ける運命を暗示していないのに、私たちは知っているがためにそれと関連付けてどうしても聴いてしまいます。

けれど、やっぱり彼はある程度自分の行く末を考えていたのかもしれません。深遠な部分はどうしても、深さが今までと違います。そこが、もしかすると彼がこの曲で本当に言いたいことだったのかもしれません。

さて、まだこのシリーズは終わりません。もうひとつあります。けれどそれは「今日の一枚」としてやりたいと思います。ですから、実質的には弦四のシリーズは今回で終わりです。一通り聴いてきまして、まだまだ聴き足りない部分や、未熟な部分が私にはたくさんあるなあと反省させられました。もっともっと、聴きこんで行きたいと思います。そして、いつの日か今度は「二つの四重奏団聴き比べ」なんていうシリーズができればと思います。しかし、それは実は考えていまして、それは今度はベートーヴェンではなく、モーツァルトのピアノ協奏曲でやりたいなと思っています。

では、次をお楽しみに!次回は、ベートーヴェンの弦四の中でも番号がついていませんが、珠玉の一曲をご紹介したいと思います。ピアノソナタを読んでおられた方は、もしかするとあれかな?とすでにお気づきかもしれませんけどね。