かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

8番を再度聴いてみれば、ドップラー効果の音がする

ドヴォルザーク交響曲第8番なのですが、リッピングしたオーディオチェックをかねて、もう一度よく耳を澄まして聴いてみました。

聴いたのは、借りてきた中の一枚、オトマール・スウィトナー指揮、シュターツカペレ・ベルリンです。すでにもっている、ノイマンチェコフィルと比較してみます。

第1楽章
冒頭はノイマンのほうが印象的ですが、次第にスウィトナーのほうが激しくなってきます。ホルンとトランペットは若干ノイマンのほうが勢いよく吹かせているとおもいます。しかし、後半は断然スウィトナー。スピード感が違います。だんだん速度が速くなっていくあたり、本当に機関車に乗っているような錯覚に陥ります。

第2楽章
これはどちらも大して変わりません。それこそボヘミアの風景を切り取ったような、牧歌的な印象を受けます。しかし、遠くには鉄道の音らしい、木管の音が聞こえます。

第3楽章
これもあまり変わらないんですね。こちらはどちらかというとスウィトナーのほうが印象深いです。

第4楽章
私としてはノイマンが好きですが、スウィトナーも負けてはいません。冒頭のトランペットのファンファーレ。私はあれがどうしても汽笛に聴こえてしまうのです。そして、その後の弦が機関車の動輪が動いていく音。そして、汽車はボヘミアの草原を走り抜けていきます。

この8番の特徴として、音がフレーズごとでだんだん小さくなってゆく様が挙げられます。楽譜を見ていないのでなんともいえませんが、デクレシェンドがかかっているのではなく、おそらく強弱記号が小説ごとに振られているのではないか、という気がします。それは、その小さくなり方が、ノイマンスウィトナーどちらもそほど変わりがなかったからです。私は、この指定こそ、ドヴォルザークが曲中であらわしている「蒸気機関車」なのではないか、と思っています。汽笛や蒸気音は、ドップラー効果で過ぎ去ってゆくとだんだん小さくなります。おそらく、それを表現しているのではないかと思います。

通常、第8番はドヴォルザークが故国ボヘミアで書いた最後の交響曲であるので、故国に別れを告げるため、その美しい風景を表現した曲と説明されることが多いのですが、私はそれだけではなく、祖国の鉄道とのつらい別れを表現しているのではないかという気がしてならないのです。確かに祖国の風景を表現していると思いますが、そこにはしっかりと鉄道が描かれている。まるで、「撮り鉄」が去り行く車両に別れを告げるかのように。例えば、昨年引退した新幹線0系に別れを告げた、多くの鉄道ファンを想像していただけるとわかりやすいと思います。

ドヴォルザークはこの後アメリカにわたります。おそらく、彼はアメリカの鉄道に対して、あまりよい印象をもっていなかったのはないでしょうか。しかし、渡ってみたらヨーロッパとは違う形式に驚き、その「鉄」ぶりを発揮してしまったのでしょう。そこに、新たに出会った黒人音楽。それが融合して出来上がったのが、第9番「新世界より」だったのではないかと、私は思います。