東京の図書館から、4回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルハーモニー交響楽団によるBEYOND THE STANDARD。今回はその第2回目。第2集を取り上げます。収録されているのはチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」と武満徹の「系図」です。
このBEYOND THE STANDARDシリーズは、クラシック音楽の「スタンダード」と、日本の作品のスタンダードとなりつつある作品をカップリングさせることがテーマとなっています。そしてその選曲には明確な関連性を持たせています。この第2集においてもその方針は変わっていません。え?どこに関連性が?と思うかもしれません。
まず、チャイコフスキーの「悲愴」は、チャイコフスキー最後の交響曲でありそして最後の作品と言える作品です。
そして、武満徹の「系図」も、実は最後に限りなく近い作品なのです。
そして、実は最近の研究では、この二つとも、それぞれの作曲家が晩年においても新しいことを目指していた象徴なのではと考えられるようになってきています。例えば、チャイコフスキーの「悲愴」は最終第4楽章はアダージョです。テンポに関しては疑義も唱えられてはいますが、少なくともアレグロ楽章ではないことは明白です。それはチャイコフスキーがドイツ風の交響曲から脱却しようとしていたとみなされているのです。
一方、武満の「系図」も、武満という作曲家がそれまで築き上げてきた作風を打破し、調性音楽にも取り組む姿勢を示したものと言えます。かつて私も「系図」を取り上げた時、こう書いています。
「音楽の基礎として、ジョン・ケージややルトスワフスキといった無調音楽の作曲家の影響を受けているのは間違いないと思います(彼らの音楽的特徴は話すと長いので今回は省きます。知りたい方はウィキの項目から飛んでください)。しかし、武満の特徴として調性音楽を決して排除していないという点も指摘しておくべきかと思います。
特にこのアルバムでは、武満が決して無調音楽という一言でくくるられるべきではないという一つのメッセージともなっています。
(中略)
私が「系図」が珍しいと思うのは、ピーターと狼という「音楽物語」、つまりオケ主体ではなくて、語りとオケのために作曲されているという点です。つまり、語りとオケは全く対等です。いわば、モーツァルトのピアノ協奏曲におけるピアノとオケとの関係にそっくりなのです。オケが演奏するその中で淡々と、しかし痛切な想いをもって少女(12〜15歳程度、楽譜に指定あり)が詩を読んでいく・・・・・そのコラボレーションを「味わう」作品です。
不思議なことに、それは曼荼羅のように私たちの心に訴えかけてきます。音楽は決して激しくないのに、語りと音楽が混然一体となって、私たちを包み込んでいきます。そしていつの間にか、詩が表現している世界に私たちは降り立っているのです。
これは不思議な作品だなあと思いました。ベートーヴェンのように荘重で重厚な音楽ではなくても、これほど心を動かされる音楽があるのだと、実感した瞬間でした。言葉とは、これほど強いものなのかと、合唱出身でありながら実感した次第です。もしかすると、武満氏は日本人が「言霊」を大切にする民族であるということをしっかりと認識したうえで作曲したのだろうかと思います。
ナレーションが今はすこし大人の色気全開の遠野なぎこ(当時の芸名は遠野凪子)であるのもいい味出しているように思います。純真な少女の切々たる言葉が、オケの調性感がある音楽と混然一体となって、私たちを引きずり込んでいきます。」
実はこのアルバムの解説をしている片山杜秀さんも、私と同じ視点で書いています。実際に武満自身が調性音楽に興味を持ち、意欲的に活動しようとしていたことを、彼の残した言葉から導き出しています。「系図」という作品自体は不協和音も多用されており明確に20世紀音楽ですが、一方で旋律線もはっきりしている部分もたくさんあります。それは武満が明らかに自分の作風を変化させようとし、新しい地平へに至ろうとしている証拠でもあります。
ですが、武満はその新しい地平を耕す前に、病気で亡くなります。一方チャイコフスキーも、「悲愴」を作曲した時は生き生きとしており、希望に満ち溢れていたとされています。さらに「悲愴」に続く作品も構造段階ですが頭の中には明確に持っていたようです。ですが「悲愴」の初演直後、チャイコフスキーも病気で亡くなってしまいます。そこもまた、共通点だと言えます。
また、二つの作品は、個人と家族、社会という側面からも共通点があります。実はこのアルバムおいて、片山さんははっきりとチャイコフスキーが同性愛者であったこと、同性愛者であったがゆえに社会と軋轢をかかえていたであろうことに触れています。私が知る限り、アルバムの解説でチャイコフスキーが同性愛者であったことを明確に書いた解説を読んだのはこれが初めてかと思います。「悲愴」はかなりチャイコフスキーの個人的な内面がテーマとなっていますが、それが同性愛者としての自分であり、社会との関係性の中でもがく自分を俯瞰してということであれば、納得できる部分は数多くあるのです。まだ同性愛者が社会で受け入れらず、また自助グループというものも存在しない時代であれば、最後がアダージョでおわるのもむべなるかなと思います。しかも音楽の潮流は後期ロマン派であるわけですから、むしろ自分の内面性を表現することこそ美徳とされたわけですから、最終楽章がアダージョになってもいいということですから。ですがそれをやる作曲家が居ない、なら自分がパイオニアにならんという、意欲的な作品だったというわけです。つまり、「悲愴」は決してチャイコフスキーの「白鳥の歌」、つまり辞世の句ではないわけです。
また「系図」も、少女の目を通して家族を見ます。その家族もまた社会の中でほんろうされますが、歌詞の中には明確に社会は出てきません。ですが社会の中でもまれた家族の姿が透けて見えるのです。歌詞は谷川俊太郎氏の「はだか」から採用され、「ぼく」が「わたし」に代えられ、男性から女性へ変化させられていますが、少年あるいは少女が見た家族、そしてその背後にある社会を見据えています。どちらも社会の中でほんろうされる個人の、その内面を描いた作品だとも言えるわけです。
バッティストーニは、その視点で2つの作品にアプローチをしています。特に「悲愴」に関しては、過度にメランコリックになっていないのにドグマを感じる演奏になっているのは驚きです。そのアプローチをするとたいていドグマが薄まることが多いのですが、しっかり感情が込められドグマを感じるのです。特に第1楽章と第4楽章でそれは顕著で、その一方で明るさすら感じ、しかもそれが違和感ありません。いやあ、まさにプロの演奏だと言えますし、こういった演奏を待っていました!
また「系図」は朴訥とした演奏の中でしっかりと感情の起伏もあります。不協和音と調性の絶妙のバランスが主人公の秘めた内面を表現するのにぴったりだと言うことを演奏で証明しています。またナレーションはなんと「のん」、つまり能年玲奈です。10代の少女が望ましいとされていますが、収録時ののんの年齢は25歳。ですが少女のように聴こえるんです。この辺りさすが「あまちゃん」を演じきったのんだと思います。しっかりと10代の少女を演じきっているのです。そもそも、のんの声自体が幼い部分もあります。とはいえ、今年はネットフリックスのドラマ「新幹線大爆破」では爆破対象の東北新幹線の運転士役も演じた名優。私も宣伝動画を見ましたが、本当に冷静な運転士の役をしており、のんがこれまで歩んできた人生は一つも無駄になっていないなと思います。そのうえで「系図」のナレーションを聴きますと、さすが名優のんはすでに20台で十分な演技力を持っていたと言えるでしょう。のんをナレーションに採用したのがバッティストーニだったのか他者だったのかはわかりませんが、素晴らしい選択だと思います。
のんのまさに少女のような、朴訥でありつつも感情がこもったナレーションに、色彩豊かな東京フィルハーモニー交響楽団の演奏が絶妙で、涙が出てくるくらい・・・演奏機会はプロが多いのですが、ナレーションのコストが見合うのであれば、アマチュアオーケストラでも演奏してほしい作品です。その意味では、このアルバムに於いては、アマチュアらしい選曲をプロがしっかりとやり遂げたとも言え、アマチュアにあらたなな目標を与えたとも言えるでしょう。ナレーションの私の推薦は、声質からすれば伊藤桃とかカコ鉄さんとかですね。特にカコ鉄さんは「永遠の20歳」という意味でプロハタチと自称していますので・・・アマチュアオーケストラの皆さま、いかがでしょうか。
聴いている音源
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲
交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」
武満徹作曲
語りとオーケストラのための「系図~若い人たちのための音楽詩~」(詩:谷川俊太郎)
のん(語り、系図)
太田智美(アコーディオン、系図)
アンドレア・バッティストーニ指揮
東京フィルハーモニー交響楽団
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