かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:ウィーン・フィルのニューイヤーコンサート2002

今月のお買いもの、令和6(2024)年3月に、e-onkyoネットストアで購入しました、ウィーン・フィルニューイヤーコンサート2002を取り上げます。

このアルバム名でピン!ときた方も多いのではないでしょうか。毎年行わているウィーン・フィルニューイヤーコンサートの中でも、この2002年は、指揮者が小澤征爾だったのです。

つまり、このアルバムを私が購入した理由、それは間違いなく、小澤征爾追悼です。死の報道があったときに、真っ先に考えたのは、このニューイヤーコンサートの音源を私は持っていないということでした。実は当時、私はあまり小澤征爾にいい印象を持っていませんでした。確かに、素晴らしい指揮者ですが、かといって、その演奏がすべて手放しで素晴らしいと評価しているかと言えば、実はそうではありません。評価していない部分もあります。なので、小澤征爾ウィーン・フィルニューイヤーコンサートの舞台に立った演奏を、買うかどうか、当時迷い続け、買わないうちに店頭から消えたのでした・・・

しかし、この機会で必ず再販するはずと考え、この際ハイレゾでとe-onkyoネットストアで物色したところ、ようやく巡り合ったというわけです。22年経って、ようやく買い求めることが出来ました。これもまた、私自身、やはり日本人だなあと感じた次第です。

というのは、小澤征爾はそのキャリアの中でやらかしていることがあり、それが日本フィルとのゴタゴタです。労使が対立し、その渦中に小澤征爾も巻き込まれたのですが彼は経営側に立ちました。その結果、日本フィルを振ることは無くなり彼は新しく設立された新日本フィルとの演奏を選ぶわけです。

その経過を知っている人であるならば、果たして労働者としての団員の力が強いウィーン・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督に就任するとなったとき、どこまで表現できるのか?という点は非常に気になったところですし、私のその一人でした。だからこそですが、私のマーラーの「復活」での批判もその経過を知っているからこその批判です。以下はオーケストラはサイトウ・キネン・オーケストラですが、それでも小澤が日本フィルでやらかしたことが、批判の根底にあります。

ykanchan.hatenablog.com

ところが、このニューイヤーコンサートでは、ふたを開けてみれば見事なタクトなのです。当時、NHKBSを見て聴いていても、本当に見事だと思いました。細部ではやっぱり日本人だなあとは思いましたが。

実際、このアルバムを聴いても、ハイレゾということもあるでしょうが、オーケストラが生き生きと演奏しているのが分かります。小澤征爾は日本人なのでゲミュートリッヒ・ヴィ―ン(心地よいウィーンという意味で、ウィーンのリズムを主に表現します)になじみは薄いですが、演奏するオーケストラはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ですからやはり完全なゲミュートリッヒ・ヴィ―ンです。そのあたり、小澤征爾も成長した、ということになろうかと思います。さすがに若き日には経営側には逆らえなかったということでしょうか。力がなければ、自分がつぶされるだけですからね。

この演奏は、若き日に日本フィルでは経営側に立たざるを得なかった小澤征爾が、社会でもまれるうちに、経験を積んでオーケストラとの付き合い方を学んだということだと思います。実際、小澤征爾は中国でタクトも降っており、必ずしも労働者に厳しかった人だとは私は思っていません。なので日本フィルとのゴタゴタは、明らかに小澤自身が力がなくて逃げた、ということだと思います。その点は批判はされるべきでしょうが、だからと言って彼の芸術を全否定するのは間違っていると思っています。

だからこそ、私はこの音源を買い求めたのです。今買っておかなければ必ず死ぬとき後悔する・・・その信念で買い求めました。おそらく全曲は収録されていないだろうとは思っていましたが、それでも、でした。実際、このアルバムにはコンサートの全曲は残念ながら収録されていません。ただ、1曲目が「こうもり」序曲というのはにくいですねえ。やはりこの曲はニューイヤーコンサートでも映えますので。

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コンサートで演奏されたがこのアルバムには収録されなかったのは、

J.シュトラウス2世:ワルツ《カーニバルの使者》op.270
J.シュトラウス1世:《アンネン・ポルカ》op.137
ヨーゼフ・シュトラウスポルカマズルカ《腕をくんで》op.215
J.シュトラウス2世:《常動曲》op.257
J.シュトラウス2世:《エリーゼポルカ》op.151
ヨーゼフ・シュトラウスポルカ・シュネル《大急ぎで》op.230
指揮者 小澤征爾と楽団員からの新年の挨拶

の7つです。あとは収録されています。収録されている中で、シュトラウス以外の作曲家として、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世の「悪魔の踊り」が珍しいですが、この人、実はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にゆかりのある人で、コンサートマスターと指揮者を務めた人でした。ただ、地味だったので売り上げは下がったようですが・・・いつの世も、人気というのもは移り気ですね。

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しかし、実際聴いてみるとこれが実に切れがある曲!これで地味なのか?と思ってしまいます。それを聞いても、本当に人気というものは移り気だよなあって思います。この曲を入れてきたことを、聴衆はどう受け取ったのでしょうか?私自身は驚いたのでは?という気がします。日本人の小澤が、この人の作品を選択するのか!と。近年、シュトラウス以外の作曲家をプログラムに入れることはウィーン・フィルニューイヤーコンサートでは恒例ですが、ウィーン・フィルにゆかりのある人の作品を入れたと言うのも、私は日本フィルとのゴタゴタが、オーストリアにも伝わっていたのではないか?という気がします。その点で疑念があったところを払しょくする、という意味合いもあったのではないでしょうか。特にこの曲ではウィーン・フィルの気合も感じられます。

そして、「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」が終った後の拍手は、多少フライング気味なのも興味深いですね。それだけ会場が興奮していたということを示します。そしてこれを聴きますと、フライングブラヴォウが決して悪いわけではないということを改めて気が付かされます。あまりにも早すぎるのは問題ですが、しかし残響が響いた直後くらいでは決して悪いものではないことを、如実に表しているように感じるのは私だけなのでしょうか?要するに程度の問題です。

特に、「美し青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」は、オーストリアという国家にとって、国民統合の象徴ともいえる2曲です。「美しく青きドナウ」は革新勢力、「ラデツキー行進曲」は保守勢力が好んだ曲で、その双方の和合という意味が、この2曲をコンサートのアンコールに常に持ってくるというところに、オーストリアという国の社会が垣間見えるわけなのです。その社会の象徴ともいえるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の、しかも象徴的な「ニューイヤーコンサート」において、日本フィルハーモニー交響楽団とのゴタゴタの中で、経営側、言うなれば保守側に立った小澤征爾が、どの面下げて振るんだ!と聴衆が見ていた中で、ヘルメスベルガー2世の作品を持ってきたうえで、この2曲を最後演奏すると言うことが、いわば「免罪符」になったことがうかがえる音源です。

惜しむらくは、日本でそのような機会が設定されたなかったことでしょう。小澤征爾はその点を、どのように思いながらこの世を去ったのだろうかと考えます。マエストロのご冥福をお祈りしつつ、合掌・・・

 


聴いているハイレゾ
ウィーン・フィルニューイヤーコンサート2002
喜歌劇「こうもり」序曲(ヨハン・シュトラウスⅡ世)
ワルツ「芸術家の生涯」作品316(同上)
行進曲「乾杯!」作品456(同上)
ポルカマズルカ「おしゃべり女」作品144(ヨーゼフ・シュトラウス
ポルカ・シュネル「前進」作品127(同上)
ワルツ「水彩画」作品258(同上)
ポルカマズルカ「とんぼ」作品204(同上)
ポルカ・シュネル「おしゃべりな可愛いお口」作品245(同上)
悪魔の踊り(ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世)
ワルツ「ウィーン気質」作品354(ヨハン・シュトラウスⅡ世)
ポルカ・シュネル「チク・タク・ポルカ」作品365(同上)
ワルツ「美しく青きドナウ」作品314(同上)
ラデツキー行進曲作品228(ヨハン・シュトラウスⅠ世)
小澤征爾指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(デッカ flac48kHz/24bit)

※TuneBrowserにより192kHz/32bitにして再生

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