かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:ジョナサン・ノットと東京交響楽団の第九

今月のお買いもの、令和2(2020)年12月に購入したものをご紹介します。ジョナサン・ノットが東京交響楽団を指揮した、ベートーヴェンの第九です。e-onkyoネットストアでの購入です。

12月でかつ種子島から戻ってきたというタイミング。どうしても第九が欲しくなりました。その時には年末に第九が演奏できるかもわからなかったですし、それならハイレゾでということで、購入したのがこの音源でした。

すでに東京交響楽団の演奏のものは、スダーン指揮のものをもっています。ただ、Facebookであまりにもノットと東響を持ち上げる人がいたので、それなら買って見ようというわけでした。

いや、ノットの指揮したものは図書館でも借りていますので、そのすばらしさはもうわかっています。今度は東京交響楽団を振ったものはどうなのだろう、しかも第九で、ということなのです。

まあ、悪かろうはずはありません。筋肉質で引き締まったテンポ。かといって強迫的ではない表現。それが織り成す情熱と冷静の間の、なんとも言えない味わい。どれをとっても素晴らしい!

ですが、これは変態演奏です。第4楽章vor Gott!の部分はvor1拍に対しGott!が4拍ですし。けれどもそれが全く自然なのもいいなあ。

けれども、です。これを聴いて一つ気になったことがあります。それは、合唱団が口語体だ、ということです。それ自体は何ら問題ないですし、どんどん口語体でやってほしいと思っています。が、です。ノット信者というか、盲目的にノットを礼賛している人たちは、合唱団が口語体であるということを、どう認識しているのだろうかと疑問に思ったのです。

というのは、私が持っているスダーン指揮東京交響楽団の演奏も合唱団は同じ東響コーラスで、かつ口語体なのです。ということは、口語体の発音は、東響コーラスさんの伝統になっている、ということになります。ノットはそれを受け入れたうえで振っている、ということになります。むしろそこをどう評価しているのだろうかという点は疑問に思うのです。

もちろん、私はそのノットの判断を支持しますし、ノットの解釈の明快さにも敬意を表するものです。しかし、ノットの才能とは、合唱団が口語体だろうが文語体だろうが、自分のスタイルを貫き通していく芯の強さと、そのスタイルのそもそもの柔軟性にあるのではないかと思っています。その点で現在ほかの在京オケの指揮者たちの中では抜きんでていると思います。

こういうところを意外と評価してないんですよねえ、「ノット信者」というか、東響さんの熱狂的なファンの方の一部の方々は。それってノットはどう思うだろうって思うんですよねえ。もちろん、ファンがどう思うと勝手ですが、少なくともブログなどで他者を貶める形での礼賛はいかがなものかって思います。それをノットは望んでいるんでしょうか。

ノットが口語体容認なのかどうかはわかりません。下手すれば私が文語体派だと言うかもしれません。それでも口語体を貫き通し、見事な連帯の歌を紡いだ、ノットのタクト。それに尊敬の念を感じずにはいられません。前回小澤/水戸室と並んでお勧めするものです。

 


聴いているハイレゾ
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
ルイーズ・オルダー(ソプラノ)
ステファニー・イラーニ(メゾ・ソプラノ)
サイモン・オニール(テノール
シャンエン(バス/バリトン
東響コーラス(合唱指揮:冨平恭平)
ジョナサン・ノット指揮
東京交響楽団
(Exton ovcl00740 flac192kHz/24bit)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。