東京の図書館から、今回も府中市立図書館のライブラリをご紹介します。ヴァイルとバーンスタインの管弦楽作品を収録したアルバムです。
ヴァイルと言えば、「三文オペラ」や「マハゴニー市の興亡」などオペラなどで有名な人ですが、管弦楽作品も数多く手がけています。日本ではあまりにもアメリカへ渡った後の作品が有名なのですが、私としてはその傾向には一線を画しており、このブログでも交響曲などを取り上げているかと思います。
その延長線上で、このアルバムも借りてきています。まずはヴァイルのヴァイオリン協奏曲。正確には管弦楽ではなく、吹奏楽なのですが、打楽器もあるので、吹奏楽という記述はどうなんだろーと思います。そのせいか、図書館で借りてきたときも確か単に「ヴァイオリン協奏曲(つまり、ヴァイオリンと管弦楽のための)」という記述になっていたように思います。
とはいえ、ほとんどは管楽器とのもの。まだドイツにいた時代に作曲された作品ですが、管楽器とのセッションだとは聞いていて忘れてしまうほど、ヴァイオリンの存在感があり、20世紀特有の和声など、どこかへ吹っ飛んでしまっています。
一方、バーンスタインはなんと言っても指揮者として有名で、昨年末も、ウィーン・フィルとのベートーヴェンの交響曲全集の映像は東京都写真美術館でリマスターの映像が特別展として公開されていましたし、また第九に関しては、NHKでも放映されました。ですが、バーンスタインの作曲家としての側面は、FMでは多少取り上げられることがあるとしても、テレビなど映像ではほとんど取り上げられることはないのではないでしょうか。
バーンスタインに関しても、このブログでも交響曲などを取り上げており、これもやはり私は単に指揮者としてだけではなく、作曲家としても評価をしているので大勢とは一線を画しています。収録されているのは「セレナード」。プラトンの「饗宴」にインスパイアされた作品と言われていますが、私は聴いて「饗宴」という作品を、バーンスタインの視点で表現するためには、セレナードという、言わば軽めの音楽こそ最もふさわしいという判断だったのではないかと考えています。
5つの楽章は、じつは「饗宴」における演説の順番に準拠しています。バーンスタインはその演説の深い意味というよりは、深い意味を考えつつもちょっと引いた見物者という視点を取っています。5つの楽章に出てくる7人の演説者の内容を咀嚼したうえで、その雰囲気だとかを絶妙な音楽で表現したのがこの作品です。
ですから、できれば「饗宴」を読んだ人だと、もしかするとニヤリとする部分がたくさんあると思うのですが、読んでいなくても、ウィキあたりの解説だけで、おやおや、現代でもこんな人いるよなあとか考えたりするのでとても面白い!
その意味では、やはりバーンスタインは天才だったと言えましょう。「饗宴」などプラトンが自分の著書でソクラテスを語る場合、それは本当にソクラテスの思想のみを反映しているかは、専門家の間で疑義が起こされています。そういうプラトンの姿勢すら笑い飛ばしているかのような内容は、某恋知と言われる人たちとやりあったことがある私としては、痛快さすら感じます。
そして、このアルバムの最大の特徴は、演奏しているのは二つともそもそもあまり作曲者と縁がない演奏者たちによるものだ、ということです。特にバーンスタインの作品は自作自演が多いのですが、これは全く違う指揮者、ソリスト、演奏者によるもので、エポックメイキングだと思います。ヴァイルでは不協和音が鳴り響く中、リズムも大事にして作品がもつ洒脱さやニヒリズムすら表現し、バーンスタインではその内面にある批判精神を思いっきり前面に出しています。ともすれば現代的な和声によりつまらないと感じてしまうリスクがある二つの作品に生命を宿らせ、二つとも魂を血が通った人間による作品なのだという共感にあふれています。
こういう演奏こそ、プロの仕事。特にバーンスタインのセレナーデは、すっかりファンになってしまいました。「信者」であることのいい点と悪い点を、しっかり境界線を引いていることの大切さが、演奏からにじみ出るのは、さすがヨーロッパだと思います。
聴いている音源
クルト・ヴァイル作曲
ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲作品12
レナード・バーンスタイン作曲
セレナード プラトンの「饗宴」によるソロ・ヴァイオリン、弦楽オーケストラ、ハープと打楽器のための
ロドリク・ミロシ(ヴァイオリン)
ジャン=ルイ・バセ指揮
カエン管弦楽団
地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。