かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:諸井三郎 管弦楽作品集

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回はナクソスから出ている日本作曲家撰集から、諸井三郎の管弦楽作品集をご紹介します。

神奈川県立図書館と小金井市立図書館、そしてまだご紹介していませんが府中市立図書館のライブラリで決定的に異なるのは、このナクソスの日本作曲家撰集が、小金井と府中にはないことです。

そう、神奈川県立図書館にしかないんです。ナクソス自体も小金井と府中はなく、これも神奈川県立図書館の特色となっています。

購入金額の多寡という問題ではなく、恐らく、司書さんのセンスなんだろうと思います。まあ、それぞれ特色はあるので、だから東京はとは言えないんですが・・・・・

にしてもです、都知事の割には、こういった日本人作曲家の作品を、東京と言う首都は軽視しているという傾向はあるのではと思います。その意味では、まだ借りられるときにこのアルバムを借りておいて本当によかったと思います。

さて、諸井三郎ですが、どこかで聴いたことあるような・・・・・でも、作曲してましたっけ?というのが大方の想起なのではないかって思います。それもそのはず、殆どの作品が戦前に集中しているからなんです。

諸井三郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E

家柄が太平洋セメントの一族ですから、ある意味メンデルスゾーンに似た境遇でもあると言えるでしょう。それゆえに、当時の先進的な音楽に触れる機会も多かったとも言え、作品も実に魅力的なものだと言えるでしょう。ウィキではベートーヴェンという言葉が躍っていますがむしろ、新古典主義音楽というほうが諸井の作品の特色を端的に示しているものだと言えるでしょう。

なぜ戦後に作品が少ないのかはいまだよく分かっていません。燃え尽きたから、とも言われますが・・・・・

私は、我が国の聴衆たちが、諸井の作品の本質を理解していなかったからだと思っています。それと、戦中政府に協力したこと。これが、諸井をして、戦後作品を発表することから遠ざかった理由だったのではないかって思います。

3曲収録されている全てが、実は戦中のものなのですが、そこにこのアルバムの隠された意図が見え隠れするように思います。これはこのアルバムを監修した片山氏ともし話す機会が与えられば、是非とも確認してみたいと思っているのですが・・・・・

まず、第1曲目が「こどものための小交響曲変ロ長調作品24」。1943年の作品で、10月の短い期間で完成された作品ですが、子供のためと言っても実に多彩で濃い内容の作品です。同じ10月に初演されNHKで放送されているのですが、そこがもしかすると、諸井が戦後作曲から遠ざかった一つの理由なのかなって、わたしは推測しています。

こどものための小交響曲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E5%B0%8F%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2

私はこの作品の構造に、密かな諸井の抵抗を見ます。3楽章ということは、暗に自由を意味するキーワードだからです。諸井は新古典主義音楽の薫陶を受けた人です。ですから、隠されたキーワードは「自由」となります。不自由な戦中の統制経済と社会の中に置いて、「自由」を歌い上げるのはとても危険なことでした。ともすれば特高が飛んできて、逮捕拘留という時代です。そこに巧みに要素を取り入れて、自由をキーワードに表現したのが、この作品だと思っています。

でも、当時の聴衆は、新古典主義音楽のなんたるかはあまり理解できていません。ですから、特高に拘留されることは逃れたのでしょう。そのことを諸井はどのように思っていたのでしょうか。次々と逮捕拘留され、或はそれを恐れ転向していく文化人たちを見て、諸井の胸中や如何に?と思います。その同志たちへのアンソロジーだとすれば、この作品が持つ意味はとてつもなく大きいものであると言っていいでしょう。

2曲目が交響的2楽章。劇的な展開を持つ管弦楽作品ですが、どこか強迫的なものも感じられるのですよね〜。1942年の作曲ですから、ちょうど太平洋戦争の分岐点あたりだと言えるでしょう。一般民衆は新聞によって事実が隠されていましたが、諸井のような財界人の所には様々な情報が入ってきていたことでしょう。戦争が政府発表の通りではないことくらい、とうにわかっていたはずです。そんな中で思いのたけをぶつけた作品のように思います。

3曲目が交響曲第3番。一説には遺書とも言われる作品ですが、1944年に完成しておきながら、初演は1950年という作品です。

交響曲第3番 (諸井三郎)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC3%E7%95%AA_(%E8%AB%B8%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E)

実はこの作品も3楽章形式なのです。内容的には4つに分かれるのですが、それを諸井はあくまでも3楽章の中で表現したのです。その上で、最終楽章が「死についての諸観念」。諸井の悲しみが、ここで頂点に至っていると思います。しかも、戦中発表ができず、戦後になって、しかも、大学の学祭でというのが、諸井の作品を世間がどのように受け取っていたのかを、明確に示すものであると思います。そしてそこに、諸井が戦後創作から遠ざかった、一つの理由を、わたしは見るのです。

戦中は特高の眼があり、戦後は政府に協力したことから左側から良い目では見られず・・・・・そんな状況下で、創作を続けるのはよほどタフでなければ難しいでしょう。だからこそ、戦後は著作のほうへと移っていったとすれば、つじつまが合います。少なくとも、Wワークで対人援助の仕事をし、そこで臨床心理的アプローチをしている私からすれば、それが自然な結論なのです。

となれば、なぜこの3曲が選ばれたのか、おのずと理由は推測できると言うもの、なのです。諸井という作曲家の再評価は勿論、戦前〜戦後の狂気への批判、です。こういった作品が再評価されているということがあまり知られていないことが、わたしはヘイトへとつながっているのではないかと思っています。諸井の作品をしれば、そこに実は寄り添うものがある・・・・・それだけでも、少なくとも相手のせいにはしなくなるはずではないかと思います。

演奏する湯浅卓雄氏も作曲家としても活動する指揮者ですが、その上でアイルランド国立響が豊潤なサウンドを聴かせてくれるのです。諸井の作品が新古典主義音楽そのものであることが、オケに共感を呼んでいるような気がします。どこを切っても生命力あふれ、生き生きとした喜びの音楽がそこには流れます。湯浅の日本人としての的確な指示もあるのでしょうが、こう海外のオケの演奏で聴きますと、諸井の作品は実に先進性を持つ豊かなものだったことが明確になっています。

もっと諸井氏の作品は日本でこそ、コンサートピースに乗ってもいいように思います。まずはダスビあたりから取り上げられると、アマチュアオケを中心に広まっていくような気がしています。ともすれば、ショスタコと同じような苦しみや悲しみが、作品に詰まっている様にも思えますので・・・・・




聴いている音源
諸井三郎作曲
こどものための小交響曲変ロ長調作品24
交響的二楽章作品22
交響曲第3番作品25
湯浅卓雄指揮
アイルランド国立交響楽団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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