かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

コンサート雑感:オペラ「夕鶴」を聴いて

コンサート雑感、今回は平成29年6月17日に聴きに行きました、オペラ「夕鶴」についてです。場所は、墨田区曳舟文化センター。

このオペラを聴きに行くきっかけは、実は主役であるつうを、私も以前指導していただいたことのある、コア・アプラウス合唱指揮者、稲見里恵女史が歌われるので、元団員の友人から誘われたのがきっかけです。

それと、もともとずっとこのオペラには関心を持っていました。それは、私の日本人作曲家顕彰のスタンスとも重なります。

さて、夕鶴というオペラ、音楽史の授業では取り上げられることが多いのですが、聴いたことはないというクラシック・ファンの方も多いのではないでしょうか。私もその一人だったからこそ、今回聴きに行ったのですが、このオペラは演奏頻度が比較的高いにもかかわらず、戯曲の方の印象が強い作品ではないでしょうか。しかし、それは仕方ない部分もあります。戯曲は何と言っても、亡き山本女史の印象が強いのです。夕鶴と言えば、そちらの印象が強すぎて、オペラのほうが隠れてしまいがちです。

とは言え、実はオペラの成立過程には、戯曲が密接に絡んでいます。そもそもこのオペラは、その戯曲の付随音楽、つまりは「劇音楽」から始まっているのですから。

夕鶴 (オペラ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E9%B6%B4_(%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9)

夕鶴
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%95%E9%B6%B4

その上、このオペラでは、台詞や歌詞が、戯曲と全く同じなのです。その条件で作曲が許されたからです。それとそもそも、戯曲のサウンド・トラックという性格もあったのでしょう。このオペラを聞けば、あれ、この日本語おかしくない?と思う事でしょう。それもそのはず、オペラ、つまり戯曲の舞台設定が、佐渡だからです。昔国語の教科書にも載っていた、「つるの恩返し」がもとになっており、その民話が佐渡なのですね。

ですから、方言としては長野に近い言葉がバンバン出てきます。私は父方が諏訪ですので、諏訪の方言に近い言葉が歌詞、或はレチタティーヴォ、台詞にバンバン出てきますので、あまり聴き慣れないことはなかったのですが、できればプロジェクターで歌詞を出したほうがいいと思うのですが、著作権などの絡みでそれは難しいようです。

ということで、このオペラを見る場合、できれば木下順二の台本を持って行くほうがいいのでは、と思います。例えば、購入したり、図書館で貸し出していたとすれば、それは確実に持って行くほうがいいでしょう。やはり、方言は特に東京の人にとっては聴き慣れないものでありますから。とはいえ、それが分かることで、この作品の強烈なメッセージが明らかになるのです。

ウィキでも戯曲の説明で触れられていますが、人間の欲だとか、労働の価値だとか、人が繋がるとはどういうことかなどが、ぎっしり詰まった作品で、2時間ほどの時間があっと言う間に過ぎていきます。ソリストそれぞれ本当に素晴らしい歌唱と表現力でしたが、何と言っても賞賛すべきはつうを演じられた稲見女史でしょう。

私はこのブログでも、決して稲見女史を手放しで賞賛したことはありません。体調がすぐれないときや、ヘンに頑張ってしまうときは必ず体のどこかに力が入りすぎ、のびのびとした歌唱にならないことが多いからです。それをコア・アプラウスの本番でどれだけ見てきたことでしょう。しかし今回、それは完璧。自分が指導した児童合唱が出ているにも関わらず、つうを演じ切れたのは本当に素晴らしかったと思います。それはもしかすると、稲見女史の生き様そのものだったからなのかもしれませんが・・・・・

このオペラは、右派と左派の共同作業による、戦後日本への強烈な批判です。右派は作曲者團伊玖磨。左派は戯曲を書いた木下順二です。その二人をして共通認識に至った、戦後日本の問題・・・・・それは今まさに、さらに問題化していると思いますが、金、或は利益への執着や、そのために労働者を犠牲にしてだます手法、それは視点を変えれば男が女をだます、或は夫が妻を虐げる支配の構図を見事に問題化しあぶりだした作品です。團伊玖磨の右派としての生い立ちや、木下順二の左派としての生き様がここでは交錯します。

一番の被害者は何と言ってもつうですが、視点を変えれば与ひょうも被害者です。でもそれは、やはり知識がないことによって騙されるという部分もあるわけです。つうが自らの翼を使って反物を作るという設定は、まるで自らの体を酷使して働く労働者たちと被りますし、それを團は経営者一族の側から、木下は労働者の側から見ていたと言えます。その二人とも進歩的な文化人であり、虐げられた生い立ちがある。そこで意気投合した部分があったと想像します。でなければ、かなり民族的な作品を多く書き、黛氏とも交流があった團伊玖磨が、このオペラを書くことはなかったでしょう。また、二人とも九州に縁があることもあったと思います。

團伊玖磨
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%98%E4%BC%8A%E7%8E%96%E7%A3%A8

木下順二
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E9%A0%86%E4%BA%8C

つうが与ひょうへ思いを伝えるアリアが数多くありますが、特に都へ行きたいから織ってくれと懇願された場面でのアリアは、つうの「霊的につながりたい想い」が切々と歌われるのですが、与ひょうはそれを理解することができません。しかしこれは何もこの舞台設定に限ったことではなく、左右に限らず日本社会の隅々で起っている現象を切り取ってみたにすぎません。戦後利益至上主義に至った日本社会の凶暴さを、左派のみならず右派も問題にした作品なのです。

このオペラはそれ故、我が国でも珍しく自国の作曲家が顧みられ、上演される機会が多い作品ですが、ますますその意義は強くなっているように思います。総監督を務められました砂川氏の、アプラウスのコンサートとはまた一味違ったメッセージを受け取ったように思います。

オケもピットが狭い中で素晴らしい演奏をしたと思いますし、また、児童合唱も本当に素晴らしかった!後で一緒に行った友人から聞いた話ですと、ほぼ全員が合唱経験がない、他の楽器の経験者とのことで、さらに驚きです。指導に稲見女史は苦労されたようですが、私もよく言及する「霊的な関係」をしっかりとい子供たちと確立できていたように思います。その上で、その児童合唱のなかに大人のプロを入れたのは、違和感がありましたがやむを得なかったかなと思います。それにしてもよく、しっかりときかないと分からないレベルまで歌いきったなあと思います。歌った子供たちには本当に拍手とブラボウ!です。

大人も子供も、このような素晴らしい意欲作に出演できたことは本当に素晴らしいことだと思います。今や左右が分断されようとしているなかで、本当の問題とは何かに気が付くきっかけに、出演者も聴衆もなれる作品を、しっかりと全部聴けたのは幸せです。何か、わたし自身も「苦しんでいるのは君だけではないのだ」と言われているような気がして、「その苦しみをしっかりと大勢に伝えるのがこの作品であり、その魅力を伝えるのがあなたの役割だ」と、作曲者や作者に言われている気がして、身が引き締まる思いで会場を後にしました。

また聴くことができるといいなと思います。できれば、稲見女史のソプラノで・・・・・本当はメゾなんですよね、稲見さん。で、じつは役はソプラノの音域なのです。それをよくぞしっかりと歌い上げたことは、まさに賞賛に値すると思います。




聴きに行ったコンサート
SUNAGAWA米寿記念
オペラ「夕鶴」
総監督:砂川稔
演出:杉 理一
つう:稲見里恵(メゾ・ソプラノ)
与ひょう:青柳 素晴(テノール
運ず:清水良一(バリトン
惣ど:佐藤泰弘(バス)
グルッポピッコリーニすみだ(児童合唱)
汐澤安彦指揮
すみだ室内オーケストラ

平成29年6月17日、東京墨田 曳舟文化センターホール

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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