かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲全集5

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全集を取り上げていますが、今回はその第5集を取り上げます。

この第5集には、第14番と第15番が収録されており、この全集の最後となっています。この2曲は1970年代に作曲されており、ほぼショスタコーヴィチの晩年に当ります。

特に、第15番は死の前年に作曲されており、まるでショスタコの遺書であるかのようです。

まず、第14番ですが、1973年に作曲され、3楽章で構成されています。しかもそのうち、第2楽章と第3楽章は続いて演奏されるというものとなっており、かなり伝統的な弦楽四重奏曲からは離れていると言えましょう。

ただ、ショスタコーヴィチの心象風景を描いたものではあるため、サロン的なものは維持しており、聴いていて奇異に感じることはありません。

弦楽四重奏曲第14番 (ショスタコーヴィチ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC14%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

真正面から真面目に聴こうとすれば、例えば「無時間性における現代的会議精神」など、演奏家と作曲家、そして聴衆との会議(あるいはセッション)が強いられる作品ですが、あまりそれにとらわれることなく聴くのも、私はアリだと思っています。

献呈がベートーヴェンQのチェリストだったセルゲイ・シリンスキーであるということから、チェロが中心に音楽が進んでいきますが、その中で止まったり、つっかえたりするので、「無時間性」、つまりテンポ感が希薄ということになるわけなのですが、むしろ私たちはその無時間性が、何を意味するのかを考えるという意味で、作曲家と対話することになるのだと思います。そこを楽しめるかが、この作品を聴くときのポイントとなるでしょう。

一方、楽しめるという域をはるかに超えているのが、第15番です。

弦楽四重奏曲第15番 (ショスタコーヴィチ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC15%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

全楽章が続いて演奏されると言うのは、以前第11番でやっているのでさほど珍しい作曲ではないんですが、各楽章がすべてアダージョであるとなると、それは革新的になります。ハイドンクレメンティ交響曲のように、緩徐楽章から始まることは、特段20世紀では珍しくないと思いますが、全楽章となるとそれはそうそうないわけです。

しかも、アダージョ・・・・・しかも、第5楽章は葬送行進曲です。第1楽章ではシューベルト弦楽四重奏曲第14番が現るなんて、何かを案じているようにも思えます・・・・・

私は、それはどう見ても、「死」としか考えられないのです・・・・・・

だから冒頭、第15番を「ショスタコの遺書であるかのようです」と語ったわけです。

弦楽四重奏曲第14番 (シューベルト)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC14%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88)

徹底的に「死」を連想するものを引用しまくるこの作品からは、ショスタコが死を意識していることがはっきりと見て取れてしまうんですね。ここまであからさまに死を意識していることを宣言しているショスタコも、珍しいと思います。

視点を変えれば、それだけショスタコが自らの気持ちを公にしやすくなった時代でもあったと言えるでしょう。しかし寂しいことに、それは「生」の喜びではなく、やがて死ぬことを受け入れようとする、ショスタコの淋しさ、侘しさであった・・・・・

エマーソンQは、それを徹底的に力強くない、弱弱しい演奏で、実に明快に描いています。第14番ともども、決してアインザッツを必要以上に強くすることはなく、激しさを全く伴わないこの二つの作品を、ただただ淡々と演奏していきます。

それが私たちに語りかけるのは、ショスタコの、死期を悟った、まるで明鏡止水の精神です。人生で何度も死を意識し、その上で立ち上がってきたショスタコの、寄る年波と、体と精神の変調は、遂に彼をして、死期を悟らざるを得なくなった、その表明だと言えるでしょう。私にはショスタコが「私は死に対して無力だ」と語っているように思えるのです。

エマーソンはまるでショスタコがそこにいるかのように、嘆きとあきらめを、縦横無尽の技術で現出させています。時には苦しくてかきむしって見せたりしますが、基本的には「私はもう死ぬのだ」ということを、作品を通して受け入れていく、その過程を描いたとも言えるこの作品を、丁寧にその通りに表現しているように思います。

安らかに、ドミトリー・・・・・・

なんか、そんな言葉が出て来そうです。




聴いている音源
ドミトリー・ドミトリエ―ヴィチ・ショスタコーヴィチ作曲
弦楽四重奏曲第14番嬰ヘ長調作品142
弦楽四重奏曲第第15番変ホ長調作品144
エマーソン弦楽四重奏団




地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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