今年初めての神奈川県立図書館所蔵CDは、ベートーヴェンヴァイオリンソナタの2-3、ステレオ音源の第3回目となります。第6番から第8番までの、作品30「アレキサンダー・ソナタ」です。
音楽史の上では、モーツァルトの影響下から脱却し始め、自分の世界を創り上げていくとされている時期の作品ですが、それを意識してなのか、第1集とは違った、厳しい側面を前面に押し出す演奏となっています。
そうする評価は真っ二つに分かれるでしょう。音楽史を重視したものと評価する一方で、第3番までを評価しないのかという評価です。
私は評価するほうです。なぜならば、もしウィキの第5番での説明が正しければ、なぜ二人がこのような差を作品につけるかは明らかでしょう。ベートーヴェンの試行錯誤の結果をなぞっているからです。
ベートーヴェンがヴァイオリンがあまり上手ではないのは間違いないでしょうが、それはピアノと比べてでしょうし、当時あまたいたヴァイオリン奏者と比べて、です。決してベートーヴェンがヴァイオリンが弾けなかったのではないということだけは、理解しておく必要があります。人前に出すだけのものではなかったということです。
この「人前に」という書き方は私は誤解をまねくのであまり使いたくはないのですが、要するに、ヴァイオリン奏者としては、と言い換えれば理解しやすいのではと思います。第九が好きな私としては、ヴァイオリンとヴィオラを書き分けることが出来るベートーヴェンがそれほど下手だとは思いません。何かと比べてになるはずです。その点が前提でないと、ベートーヴェンは下手だった=弾けなかったということになりかねないからです(最近のネット言論では確実にそうなります)。
一方、メニューインはベートーヴェンに敬意を払って、いきなり高貴な演奏をしてみせた、というわけなのです。ただ、本人が生きていたとして、メニューインのアプローチを喜んだかどうかは微妙です。「そこまでうまく弾いてしまったら、恥ずかしくて聴けない」というかもしれません。謙遜だとは思いますけれどね。
ですから、このクレーメルとアルゲリッチのアプローチは、決してベートーヴェンの初期作品を貶めているわけではなく、ベートーヴェンの作曲した「作曲時期における気持ち」に寄り添っていると言えるかと思います。
特に第7番はまずピアノが出て、その後ヴァイオリンが出るという構造で、しかもピアノは通奏低音であるにも関わらずヴァイオリンとセッションしています。ですので二人とも思いっきりお互いの技量をすべて出すかの如くの演奏をしています。間合いを取りつつも、お互いが競い合っているという演奏です。
それが分かり易いのはこの全集が番号順になっているからでしょう。実際、だからこそこの第3集では作品30がまとめられたわけです。第6番の平明さ、第7番の深い短調、そして第8番の堂々たる長調と、まさしく「アレキサンダー・ソナタ」、つまりロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈されるにふさわしい内容です。
全曲を演奏しますと1時間ほどになる作品30の3曲は、こうまとめて聴きますとあっという間に時間が過ぎていきます。人口に膾炙している第5番「春」よりも作品30の3曲のほうがより楽聖と言われる姿に近いものですが、実際には「クロイツェル」の影に隠れて地味な存在です。しかし、こう聴いてみますと陰と陽のコントラストや二つの楽器間のセッションなど、実に多彩な魅力にあふれていることを、この二人は教えてくれています。
その意味では、やはりメニューインのぶった切ってしまった演奏は、素晴らしいがゆえに残念でなりません。
聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
ヴァイオリンソナタ第6番イ長調作品30-1
ヴァイオリンソナタ第7番ハ短調作品30-2
ヴァイオリンソナタ第8番ト長調作品30-3
ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
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