かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:メンデルスゾーン 弦楽交響曲全集3

東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリである、メンデルスゾーンの弦楽交響曲全集を3回シリーズで取り上げていますが、今回はその第3回目。第3集を取り上げます。

第3集には、第11番、第3番、第2番、第5番、そして第13番である「交響的断章」が収録されています。この演奏では指揮者がかかれておらず、おそらく指揮者なしなのではないかと思いますが、これもまたピリオド演奏らしいものだと思います。おそらく初演では指揮者がいなかった可能性もあるからです。

それでもアンサンブルはしっかりしていますし、また生き生きとした演奏は第2集までとなんら変わりありません。前期ロマン派までは古楽演奏でも十分でしょ、と言いたげです。それだけの高い完成度を持つ演奏を聴くことができる喜び!

もちろん、これに管楽器が入ったときはまた違うかもしれませんが、少なくとも弦楽器での表現はもはや前期ロマン派の作品であっても、モダンとピリオドの差は個性と捉えていいだけのものになったと言えるでしょう。それは演奏者の技量が上がり、結果的にバロック~前期ロマン派の時代の演奏スタイルに近づいたと言えるでしょう。

ベートーヴェンが「ハンマークラヴィーア」を作曲した時、弾けるピアニストなどいないと指摘する人に「未来になれば弾けるだろう」と答えたことは有名なエピソードですが、まさに実現させているオーケストラがコンチェルト・ケルンだと言えるでしょう。勿論それはモダンオケでもいえるわけですが、むしろピリオド演奏であるこのえんそうのほうがより前期ロマン派らしい香りがするのも不思議で、メンデルスゾーンが目指していたものがやはりロマン派という運動であったことを物語るものです。

こういう演奏に触れられることは喜びであり、またプロの仕事であろうと思います。メンデルスゾーンの弦楽交響曲はモダンの演奏で聴きますと前時代的な響きを感じるのですが、このコンチェルト・ケルンのピリオド演奏を聴きますとむしろやはりロマン派だと感じるのです。この差は面白く、メンデルスゾーンの弦楽交響曲はあくまでも過渡期の作品であるということを思い出させてくれます。習作扱いにしたのはメンデルスゾーン自身がわかっていたからだともいえるのかもしれません。

その意味でも、メンデルスゾーンの弦楽交響曲にまた一つ光を当てたこの演奏は、名演といっていいとおもいます。

 


聴いている音源
フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ作曲

シンフォニア第11番ヘ長調
シンフォニア第3番ホ短調
シンフォニア第2番ニ長調
シンフォニア第5番変ロ長調
交響的断章(シンフォニア第13番)ハ短調
コンチェルト・ケルン(ピリオド)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:メンデルスゾーン 弦楽交響曲全集2

東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリから、メンデルスゾーンの弦楽交響曲全集を取り上げていますが、今回はその第2回となります。

第2集には、第12番、第1番、第7番、第4番、第6番の5曲が収録されています。古楽であるコンチェルト・ケルンの生き生きとしてきびきびとした演奏は、聴いていて爽快で、かつ力強いものです。それでいて繊細。

メンデルスゾーンなど前期ロマン派の作曲家たちは必ずしもベートーヴェンのようなデモーニッシュな作品を書くことは稀ですが、それでも「楽器の性能いっぱいまで使う」というような作曲手法には影響を受けていることが、この演奏を聴きますとよくわかるのです。このことモダンだとわかりづらいのではないでしょうか。

その意味でもこの録音は素晴らしく見事なものだと思います。ロマン派の作品も古楽で演奏するものが増えてきている昨今ではありますが、ロマン派の作品を古楽、ピリオドで演奏する「意味」というものを存分に考えさせられるものです。

モダンで演奏してしまえばいい演奏などいくらでもできるはずですが、そこをあえてピリオドという劣るもので挑戦し、いい演奏を目指す・・・・・そのチャレンジ精神も素晴らしいうえに、演奏としてもモダンに劣らない素晴らしい生命力あふれるものになっている点も評価すべきだと思います。

前期ロマン派の時代とは、まだ楽器の性能が現代まで至っていない時代です。しかし、どんどん性能が上がっていった時代でもあります。メンデルスゾーンが生きた時代とは、そういった「楽器の進化」の途上の時代です。ベートーヴェンピアノソナタ「ハンマークラヴィーア」で信じた「未来」を、メンデルスゾーンも信じていたとという信念を、コンチェルト・ケルンが持っているように聴こえるのは私だけなのでしょうか。

こういう前期ロマン派の作品のピリオド演奏はとても素晴らしいですし、普遍的だと思います。私のワクワクが見事に当たったのは喜びとしか表現のしようがありません。

 


聴いている音源
フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ作曲
シンフォニア第12番ト短調
シンフォニア第1番ハ長調
シンフォニア第7番ニ短調
シンフォニア第4番ハ短調
シンフォニア第6番変ホ長調
コンチェルト・ケルン(ピリオド)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

新年にあたって

あけまして、おめでとうございます。

今年もこのブログをよろしくお願いします。

さて、昨年は前半と後半では、私はまるで違う人生を歩んでいるかのような年になりました。8月に新型コロナウイルスに罹患し入院。実はそのあと、さらに頸椎の病気が見つかりまして、現在仕事を休んで治療中です。

そのため、今年は早々に傷病手当金など、福祉の手続きを行う予定で、波乱の幕開けとなります。現在仕事への復帰のめどは立っておらず、このブログを書くのがリハビリのようになっています。

現在、手の指がしびれている状態で、力が入りにくくなっています。そのため、力を入れてひねったり、物を拾ったりするのがつらく、このブログを書くのも少ししんどい状態です。さらに体の自由がきかなくなってきたことから足腰の筋力が衰えており、現在歩くのがしんどい状態です。

そのため、基本的に現在の掲載日程を変更することはしない予定ですが、「東京の図書館から」のコーナーを月曜日と水曜日に掲載することとし、コラムがある時は水曜日もしくは土曜日、土曜日はコラム、コンサートレビュー、「今月のお買いもの」を掲載していく予定です。

当面はおそらく「東京の図書館から」だけが掲載されることになろうかと思いますが、できればオーケストラ・ダスビダーニャの演奏会がある時期までには出かけられるように、まずは膝周辺のリハビリに取り組む予定で、そのあたりでさらに頸椎の調子がよくなってくれば、職場復帰も希望が見えてくるだろうと思っています。是非ともレビューが書けるように取り組んでいきたいと思います。

折角いただいた人生における「休憩」の時期だととらえ、このブログを書くことを日課としながら、リハビリに取り組んでいければと思っています。できれば今年中に職場復帰ができるといいなと思っております。さすれば、もっといろんなレビューなどが書けることになろうかと思いますが、今は与えられたものから皆様にいいエントリをお届けできればと思います。


地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~メンデルスゾーン 弦楽交響曲全集1

東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリをご紹介します。今回から3回シリーズで、メンデルスゾーンの弦楽交響曲をピリオド演奏で収録した全集を取り上げます。

以前「神奈川県立図書館所蔵CD」でメンデルスゾーンの弦楽交響曲は全集を取り上げていますが、その時はモダンオケでした。しかも室内オケ。今回はピリオド演奏のものとなります。

とはいえ、ピリオド演奏、つまり古楽と言えばバロック、あるいは古典派というものが多いのですが、意外ですがロマン派の作品も古楽で演奏されることが最近多くなってきました。ブラームスすら古楽でという演奏もあります。

古楽、いわゆるピリオドというのは、「その時代の」という意味なので、実はロマン派の時代の楽器で演奏するのも古楽、つまりピリオド演奏ということになります。楽器は今に至るまで進化を遂げてきていますので、ロマン派当時の楽器で演奏することは立派なピリオド演奏ということになります。

とはいえ、メンデルスゾーンが活躍した前期ロマン派という時代は、楽器の性能からして古典派とそれほど変わるものではありません。ですから古典派あたりの楽器であればほぼピリオドということになります。そもそも、完全にピリオドということはなかなかあることではありません。ある時期こうだったであろうという推測にすべての古楽演奏が基づいていますので、それは現代に生きる私たちの推測の演奏なんです。それをどう楽しむかが、古楽演奏を楽しむ一つの視点でしょう。

そんなこのアルバムで演奏するのは、コンチェルト・ケルンバロック~古典派の作品を今までとりあげてきた団体です。

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ですので、演奏を聴きますとバロックというか、モーツァルトの時代的な「ピリオド」サウンドがそこには存在します。この全集は必ずしも番号順ではなく、この第1集では第8番と第9番と第10番という、比較的後の作品が収録されていますが、モーツァルト的でありつつもロマン派の香りもするという、不思議なんですが爽快な響きがあり、それがとても気持ちいい!

メンデルスゾーンの弦楽交響曲は、作品番号がついていないものがほとんどで、習作と位置付けられる曲たちですが、モーツァルトをほうふつとさせるだけでもその才能の豊かさを感じることができます。その才能の豊かさへの共感がオーケストラから香り立つかのような演奏は本当に気持ちがよく、かつ力強さも存在し、共感の集合体としてのエネルギーを感じます。聴いていて本当に幸せな気分になります。

メンデルスゾーンの作品は、ともすれば先進性などの点で置いてけぼりを食うことが最近多いなと感じていますが、その才能は本当に豊かです。その豊かな才能は、実に私を幸せで満たしてくれます。演奏している団員達も同じように思っているかのように感じるのが、その膨大な演奏から感じるエネルギーの量です。熱量という感じを当てるほうが適切かもしれません。

おそらく楽器の設定がバロック~古典派だと思うのですが、それがメンデルスゾーンの時代とぴったり合うのも、演奏をより爽快にさせている一因かもしれません。ある意味コンチェルト・ケルンにとっても冒険だったのかもしれませんが、オケの団員の総意で演奏されるというスタイルを取っている以上、その演奏は団員たちが納得して全力で演奏しているものです。その熱意がビンビン伝わってくるのも、私が好意的にとらえている理由でもあります。とても共感します。

こういう演奏を聴きますと、これ以降の演奏も期待が膨らみます。

 


聴いている音源
フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ作曲
シンフォニア第8番ニ長調(弦楽版)
シンフォニア第9番ハ短調
シンフォニア第10番ロ短調
コンチェルト・ケルン(ピリオド)

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東京の図書館から~小金井市立図書館~:ツェムリンスキー 人魚姫他

東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリをご紹介します。今回はツェムリンスキーが作曲した交響詩「人魚姫」を中心に収録したアルバムをご紹介します。

ツェムリンスキーは調性音楽も無調的な音楽も書いた作曲家ですが、「人魚姫」は調性音楽として書かれており、しかも壮大な物語になっています。そもそもこの交響詩は、かの有名なグリム童話が原作です。

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「人魚姫」を聴くと、その第1楽章の冒頭で私はドキッ!としました。ある映画が想起されたためです。その映画とは、「崖の上のポニョ」です。

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実は、「崖の上のポニョ」は冒頭の音楽はワーグナーがモティーフとなっていますが、このツェムリンスキーの「人魚姫」もどこかワーグナーをほうふつとさせます。そのうえ、実は「崖の上のポニョ」は人魚姫と「ニーベルングの指輪」がモティーフになった物語です。

そもそも、原作のグリム童話も、ニーベルングの指輪を髣髴とさせる物語です。最後人魚姫が泡となってその命を絶つ場面は、自己犠牲による救済であり、これはワーグナーのオペラにおけるフィナーレのキーワードです。そういう物語が好まれた時代であったともいえます。ツェムリンスキーのこの作品でもそのあたりへの共感が見て取れます。

崖の上のポニョ」は人魚姫やニーベルングの指輪をモティーフにしながらも、最後はハッピーエンドが選ばれています。つまり自己犠牲ではないんですね。そもそも「ポニョ」の場合、一人の女の子がいかに生きていくのか、生きていくことを選択することが尊いのかがテーマなんです。つまり、ある意味「自己犠牲」へのアンチテーゼとなっている作品だと言えます。

確かにツェムリンスキーのこの音楽は壮大壮麗で素晴らしく、感動的です。しかし同時に人魚姫の運命に胸が締め付けられます。天国へ行ったはいいけれど、やはり最後涙を流してしまうんです。それは人間としては同然の感情だと言えます。しかしそれは最後までネガティヴにとらえがちで、それを美しく描くことで、いろんな感情を聴き手に想起させようという意思を感じますが、その「いろいろ」という中には自己犠牲を肯定的にとらえる向きもあります。

しかし、そういった肯定的な意見が総体として大きくなった国民国家ドイツは、その後どのような歴史をたどったでしょう?このアルバムでは示唆するためにツェムリンスキーが作曲した声楽曲を二つカップリングさせています。自己犠牲の救済というキリスト教の伝統は美しいのですが、結果それがもたらしたものを示唆もしています。おそらく、宮崎監督はワーグナーだけではなくこのツェムリンスキーも頭の中にあったのではないか?という気がします。だからこそ、アンチテーゼとしてあえて同じモティーフを選び、自己犠牲ではなくともに生き抜くことを描いて見せたのではないか?という気がします。

それにしても、このアルバムを聴いて思うのは、タクトを振るシャイーの成長です。声楽曲はあまり得意としなかったはずのシャイーが、管弦楽作品だけではなく声楽曲も魅力的に聴かせるだけの統率力を持ったことを示すアルバムでもあります。交響詩である「人魚姫」だけでなく、むしろ二つの「詩編」が美しくとても魅力的です。しかも豊潤!いやあ、これほどの表現を引き出すだけの指揮者になったのかーと思うと、デビュー当時チャイコフスキー交響曲第5番を購入し聴いたときから隔世の感があります。そのチャイコフスキーも素晴らしい演奏でしたが、次に購入したオルフの「カルミナ・ブラーナ」は生気を欠くように感じたのです。うーん、劇場たたき上げではない指揮者だと、こういうのはまだ不得手なのかなあ、と。

しかしこのアルバムではそんな点は一切ありません。むしろ声楽はのびのびとしていて豊潤で、それを支える明快なオケとの絶妙のバランス!これぞ待っていたタクトでした。シャイーは確実に巨匠への道を歩んでいたのでした。現在ではディスクはないですがyoutubeに上がっているベートーヴェンの第九は名演と言えるほどの素晴らしい演奏です。同じようにこのアルバムの二つの「詩編」も感動的で素晴らしいものです。

そしておそらく、その「感動的」という点にこそ、シャイーが作品を借りて込めた「想い」というものがあるのではないかと私は受け取りました。そしてそれはおそらく、宮崎駿が「崖の上のポニョ」を作ろうと思ったのと同じ動機なのではないかと思うのです。

 


聴いている音源
アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー作曲
交響詩「人魚姫」
詩篇第13番「主よ。いつまでなのですか」作品24
詩篇第23番「主はわたしの牧者であって」作品14
リッカルド・シャイ―指揮
ベルリン放送交響楽団
エルンスト・ゼンフ合唱団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:テレマン 無伴奏フルートのための12の幻想曲

東京の図書館から、府中市立図書館のライブラリをご紹介します。テレマンが作曲した無伴奏フルートのための12の幻想曲を収録したアルバムです。

無伴奏フルートとありますが、作曲時はリコーダー用であったろうと思います。トラヴェルソ用であればこの題名でいいのですが・・・・・

とはいえ、現代はバロック・リコーダーのための作品はモダンで演奏する場合はすべてフルートになりますので、これは致し方ない部分ではあります。それでも、フルートの美しい音色を生かした、美しくも哀愁のある作品がそこに並んでいます。

1732~33年にかけてハンブルクで作曲された作品であることから、おそらくリコーダーで簡単に楽しむために作曲されたものであろうと推測されます。

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12曲ひとまとめというのもバロックらしいともいえますが、いずれにしても、ある程度リコーダーを吹くことができたり、演奏出来たりする人たちが簡単に独奏できる作品として書かれたものでありましょう。今でも中学生が吹くリコーダーの作品は多くがバロックの作品だったりします。テレマンのこの作品もそんなアマチュアでも楽しむために作曲された作品であると考えて差し支えないと思います。

とはいえ、この演奏はプロがしていますから、実に味わい深いものがあります。歌うところは歌っていますので、聴いていて飽きが来ません。それにしても、本来はタンギングのところをフルートでうまく演奏するのはさすがです。そこに作品が持つ秘めた喜びがあったりするのですが、フルートだとタンギングよりは唇のコントロールになりますから難しい部分もあるかと思うのですがみじんも感じさせず、むしろ聴衆を喜ばしているのですから、これぞプロの仕事でしょう。

そんなフルーティストは、バルトルト・クイケン。「ラ・プティット・バンド」を結成したシギスバルトは兄です。その関係からバルトルトもラ・プティット・バンドトラヴェルソを吹いています。そんなこともあり、モダンのフルートということになったのでしょう。実に優れた表現が満載で、ともすれば単純になりかねないバロックの作品を存分に歌っているのは素晴らしく、心に残ります。自分の魂が浄化されていくというか・・・・・

しかし、できればこの曲はリコーダーで聴きたいですねえ。勿論この演奏は素晴らしいのですけどね・・・・・

 


聴いている音源
オルグ・フリードリッヒ・テレマン作曲
無伴奏フルートのための12の幻想曲
バルトルト・クイケン(フルート)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ヒンデミット「ルードゥス・トリナス」

東京の図書館から、今回はヒンデミットが作曲した「ルードゥス・トリナス」を収録したアルバムをご紹介します。そもそもは、「ヴェデルニコフの芸術」の第14集なのですが・・・・・

演奏者もさることながら、ヒンデミットのこの作品は、「20世紀版平均律クラヴィーア曲集」として作曲が目指された作品ですが、私が聞くに、それは間違いであろうと思います。バッハのそのテキストでは20世紀は不足だ、とヒンデミットが考えてそれを置き換えるべく作曲されたものと私は解釈しています。

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クラヴィーア曲、つまりピアノの作品はその楽器の性能の向上につれて、フーガ以外の表現もたくさん作曲されることとなりました。和声的にも20世紀は無調や不協和音の多用など、バッハの時代とは異なる様相を見せるようになり、それは必然的にバッハの「平均律クラヴィーア曲集」だけでは足りなくなるのは当然のことです。

ドビュッシーはそれを見越して作曲もしていますが、ヒンデミットの時代はさらにそれでも足らない時代となりました。そんな意識がヒンデミットの中に有った様に思います。20世紀までに成立したピアノの技法をすべて詰め込み、時代にあった練習曲を書きたい・・・・・そんな思惑が聴いてて随所に見え隠れしています。

確かに中心にはフーガが存在しますが、それ以外はではプレリュードなのかと言えばそんなことはないわけで、それは20世紀という時代を考えれば当然であると言えるでしょう。

そんなヒンデミットの意思に共感して弾いているのが、演奏者のアナトリー・ヴェデルニコフ。知られざるピアニストという側面の方が多くの人にとってはより鮮明なのではないでしょうか。そもそもこの曲の日本語訳は「音の遊び」。そこには、20世紀までのピアノ曲が歩んで来た道のりというものが詰まっており、まるで歌いながら演奏をするかのような指示すら題名からは見えます。

その「音の遊び」を、ヴェデルニコフはやっているんですね。なのでただ弾いていますというのではなく、楽しんでいる様子が手に取るようにわかるのもこの演奏の魅力の一つでしょう。ヴェデルニコフという人は本当にそういった表現力には幅がある人で、昔から好きなピアニストで、実はこの「ヴェデルニコフの芸術」シリーズは集めようかとも思ったこともあるのですが、多すぎるんです、ほんと・・・・・ハイレゾで出ないかなあと思います。ちょっと今は出が出ないという感じです。

日本ともゆかりの深いヴェデルニコフ

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シリーズで持っていてもいいなあと思う、今日この頃です。

 


聴いている音源
パウルヒンデミット作曲
ルードゥス・トリナス(対位法、調性機能、ピアノ演奏の研究)
アナトリー・ヴェデルニコフ(ピアノ)

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