かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:グラナドス ピアノ作品全集3

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、グラナドスのピアノ作品全集をシリーズで取り上げていますが、今回はその第3集を取り上げます。

第3集はちょっと長めの作品など小品集となっています。けれどどれもロマンティックで魅力的なものばかり。

グラナドスは決して時代的にはロマン派ではありませんが、しかしながらその作品一つ一つはどれもロマンティックで魅力的。ギターから入ったアルベニスですが、本業のピアノ作品にはまりつつある私です。

本当に、グラナドスのピアノ作品は万華鏡のようで、聴いていて飽きません。真正面から聴いても、あるいは作業中BGMとして聴いても、感じるものが異なっていて、楽しいったらありゃしない!

ライナは決してメジャーなピアニストとまでは言えない人ですが、しかしたっぷりと歌って演奏するのは私好みです。特にグラナドスはたっぷり歌ってくれないとだなあとここまで聴いていて思うので、アコーギクを聴かせながらピアノを歌わせるのは、王道だともいえます。

こういう演奏を聴きますと、むしろショパンあたりを演奏するとこの人どう演奏するんだろうと、ワクワクもします。ワクワク感を与えてくれるピアニストは数少ないように思います。上手にというか、素晴らしい演奏をするピアニストならあまたいるわけです。しかしその中から聴いていてワクワクする、となると非常に数が少なくなるように思います。

これはピアノに限りませんが、演奏に対してワクワクするというのは、その演奏を好み、長く聴くかどうかの分水嶺のように思います。あ、グラナドスならライナの演奏があったな、という印象を与えうるかどうか、です。ライナはその点、合格点を軽く超えるのではないかと思います。こういう演奏に巡り合うのが、クラシック音楽を聴く一つの楽しみです。

 


聴いている音源
エンリケ・グラナドス作曲
演奏会用アレグロ
詩的なワルツ集
スペイン奇想曲作品39
アルゴネサ・ラプソディ
カレッサ・ワルツ作品38
オリエンタル
2つの即興曲
トーマス・ライナ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

神奈川県立図書館所蔵CD:グラナドス ピアノ作品全集2

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、シリーズでグラナドスのピアノ作品全集をとりあげていますが、今回はその第2回目として第2集をとりあげます。

第2集には作品37である「12のスペイン・ダンス」が収録されています。12という数字からバッハを意識している作品であると私は考えています。なぜなら、ダンスということは舞曲なのであり、それはバッハの「組曲」に通じるから、です。

そのうえで、グラナドスの祖国スペインの踊りを題材にしているわけです。実際に踊れるような音楽がそこには存在します。

ja.wikipedia.org

ウィキでは「12のスペイン舞曲」という訳を与えていますが、そのほうがよりわかりやすい気はします。とはいえ、「ダンス」としたほうが今は受け入れられやすいかもですが。何しろ、学校の体育の授業で「ダンス」という枠があり、必修なのですから。

ですが、それではなぜ12曲なのかはぼやける気がします。バッハの組曲を「舞曲」として扱うこともないですし。ですが、玄人筋の方面ではバッハの組曲が舞曲であることは常識でもあるので、このほうがわかりやすいともいえるのです。私たち普通の聴衆からすればどっちでもいいのですけれどね。

ですがこれこそ、グラナドスがギターではなくピアニストであることの証明であると言えるのですね。だからこそ、第2集に収録されているんだろうと思います。

そんなことを演奏するライナも意識しているのか、ダンスというよりはむしろ自分が音楽にノリノリになることを大切にしているように思います。もっと言えば、とにかく音楽に浸ることを大切にした演奏であると言えるのではないでしょうか。浸るとなるとじっくりという印象があるかと思いますが、何もじっくりだけが浸ることではありません。音楽に浸れば自然と体も動くこともあります。

そういった「作品が持つ生命力」に演奏しながら共感し、その共感を演奏によって表現していくというさまが、この録音からは如実に聞き取れます。ただ、もっと音楽に合わせてノリノリであってもいいのでは?という気はします。ですがそのあたりは、やはりバッハを意識しているんだろうなあと思うのです。もっと言えば、演奏者が作曲者がバッハを意識しているよなあという共感が結果として現れている演奏だと言えるのです。

だからこそ、私は「作品が持つ生命力に演奏しながら共感し、その共感を演奏によって表現」とこの演奏を「表現」したわけなのです。それをどう受け取るかは私たち次第ですが、少なくとも私は演奏者の共感を受け取り、私自身もさらなる共感をするものです。

一見するとつながっていないように見える、グラナドスとバッハ。しかし古典派のベートーヴェンから受け継がれたバッハの魂は、新古典主義音楽という枠の中で確かに息づいている作品だと思いますし、その共感にあふれている演奏は、聴いていてとても心地よく、魂に喜びを感じるものなのです。

 


聴いている音源
エンリケ・グラナドス作曲
12のスペイン・ダンス作品37
トーマス・ライナ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ショルティとシカゴ交響楽団によるベートーヴェン交響曲全集3

東京の図書館から、シリーズで取り上げている、府中市立図書館のライブラリである、ショルティ指揮シカゴ交響楽団によるベートーヴェン交響曲全集の、今回は第3集をとりあげます。

第3集には、第5番と第4番が収録されています。第4番が先ではないんですよね。第5番が先です。そのため、この全集は完全に番号順とは言えないと思います。が、ほぼほぼ番号順だとは言えるでしょう。

第5番の演奏は、ある意味古典的なアプローチをしていると思います。見えを切ったり、フェルマータを存分に伸ばしたり。外形的かもしれませんが、しかし「運命にあらがう人間と、その勝利の音楽」というストーリーは見事に実現しています。

第5番という作品をどのようにとらえるのかは指揮者の自由です。クルレンツィスのようにリズムをただ積み上げていくという方法もありますが、それだと無味乾燥な気がします。やはりショルティのアプローチのほうを支持します。ストーリーを重視する解釈です。

もちろん、第5番という作品は一つの主題、リズムが全体を支配するというものでもあります。ただ、それをどう紡いで「歌う」のかも、重要なファクターだと思うのです。作曲当時のベートーヴェンを考えたとき、私が指揮者ならそうします。

第4番の生きのよさも素晴らしい演奏!どうも第5番が先だと影が薄くなる傾向があると思いますが、そんなことがない溌溂とした生命力ある演奏は、私が好きな演奏です。ショルティの鋭い譜読みはさすがだと思います。それがたとえ多少外形的だとしても、魂を救い上げるような解釈に尊敬の念を感じます。さすが巨匠であろうと思います。

特に第4番こそ「歌」を歌っており、正直この全集を借りたとき、おお!クライバー以来の素晴らしい演奏が来た!と思いました。ベートーヴェンは重々しいだけじゃない!とずっと思ってきました。それを共感してくれているような感じがします。こういう演奏は聴いていて幸せです。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第5番ハ短調作品67「運命」
交響曲第4番変ロ長調作品60
サー・ゲオルグショルティ指揮
シカゴ交響楽団

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東京の図書館から~府中市立図書館~:ショルティとシカゴ交響楽団によるベートーヴェン交響曲全集2

東京の図書館から、府中市立図書館のライブラリである、サー・ゲオルグショルティ指揮シカゴ交響楽団によるベートーヴェン交響曲全集、今回はその第2集をとりあげます。

第2集には、第3番「英雄」と、エグモント序曲が収録されています。演奏としてはかなりアグレッシヴ。私の好きな感じです。そのうえで、見栄も切る(第4楽章冒頭)。いやあ、最高!

第2楽章葬送行進曲も、寂しさと悲しさたっぷりですし、聴かせてくれるなあと思います。そのうえではっちゃける第3楽章と第4楽章。ツボを押さえる演奏はさすがです。

そのうえで、全く陳腐じゃなく、外形的でもない。しっかりと楽譜からコアな部分を掬い取り、シカゴ響と「歌」を奏でるそのタクト、もうたまりません。

どちらも有名で、この全集自体とても評価が高いものですが、やはり百聞は一見に如かず。聴いてみればそのすばらしさがわかろうというものです。もちろん、細部だとそれはちょっと違うなあと思う点もあります。しかしそんなものは一アマチュアのしかも楽器すらできない合唱屋の世迷言。ショルティには自身の確固たる解釈があるわけですし、それが不自然でもないので、納得です。

エグモントも、このコンビで全曲聴きたいよね、と思わせるだけの劇的な表現。ワクワクするんです、演奏を聴くと。それは「英雄」をきいていても思います。どんなジャンルの音楽でも、ワクワクすることは大切であろうと思います。その大切なことを大切にしている演奏。名盤と呼ばれるだけあると思います。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
「エグモント」序曲 作品84
サー・ゲオルグショルティ指揮
シカゴ交響楽団

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今月のお買いもの:ジョナサン・ノットと東京交響楽団の第九

今月のお買いもの、令和2(2020)年12月に購入したものをご紹介します。ジョナサン・ノットが東京交響楽団を指揮した、ベートーヴェンの第九です。e-onkyoネットストアでの購入です。

12月でかつ種子島から戻ってきたというタイミング。どうしても第九が欲しくなりました。その時には年末に第九が演奏できるかもわからなかったですし、それならハイレゾでということで、購入したのがこの音源でした。

すでに東京交響楽団の演奏のものは、スダーン指揮のものをもっています。ただ、Facebookであまりにもノットと東響を持ち上げる人がいたので、それなら買って見ようというわけでした。

いや、ノットの指揮したものは図書館でも借りていますので、そのすばらしさはもうわかっています。今度は東京交響楽団を振ったものはどうなのだろう、しかも第九で、ということなのです。

まあ、悪かろうはずはありません。筋肉質で引き締まったテンポ。かといって強迫的ではない表現。それが織り成す情熱と冷静の間の、なんとも言えない味わい。どれをとっても素晴らしい!

ですが、これは変態演奏です。第4楽章vor Gott!の部分はvor1拍に対しGott!が4拍ですし。けれどもそれが全く自然なのもいいなあ。

けれども、です。これを聴いて一つ気になったことがあります。それは、合唱団が口語体だ、ということです。それ自体は何ら問題ないですし、どんどん口語体でやってほしいと思っています。が、です。ノット信者というか、盲目的にノットを礼賛している人たちは、合唱団が口語体であるということを、どう認識しているのだろうかと疑問に思ったのです。

というのは、私が持っているスダーン指揮東京交響楽団の演奏も合唱団は同じ東響コーラスで、かつ口語体なのです。ということは、口語体の発音は、東響コーラスさんの伝統になっている、ということになります。ノットはそれを受け入れたうえで振っている、ということになります。むしろそこをどう評価しているのだろうかという点は疑問に思うのです。

もちろん、私はそのノットの判断を支持しますし、ノットの解釈の明快さにも敬意を表するものです。しかし、ノットの才能とは、合唱団が口語体だろうが文語体だろうが、自分のスタイルを貫き通していく芯の強さと、そのスタイルのそもそもの柔軟性にあるのではないかと思っています。その点で現在ほかの在京オケの指揮者たちの中では抜きんでていると思います。

こういうところを意外と評価してないんですよねえ、「ノット信者」というか、東響さんの熱狂的なファンの方の一部の方々は。それってノットはどう思うだろうって思うんですよねえ。もちろん、ファンがどう思うと勝手ですが、少なくともブログなどで他者を貶める形での礼賛はいかがなものかって思います。それをノットは望んでいるんでしょうか。

ノットが口語体容認なのかどうかはわかりません。下手すれば私が文語体派だと言うかもしれません。それでも口語体を貫き通し、見事な連帯の歌を紡いだ、ノットのタクト。それに尊敬の念を感じずにはいられません。前回小澤/水戸室と並んでお勧めするものです。

 


聴いているハイレゾ
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
ルイーズ・オルダー(ソプラノ)
ステファニー・イラーニ(メゾ・ソプラノ)
サイモン・オニール(テノール
シャンエン(バス/バリトン
東響コーラス(合唱指揮:冨平恭平)
ジョナサン・ノット指揮
東京交響楽団
(Exton ovcl00740 flac192kHz/24bit)

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神奈川県立図書館所蔵CD:グラナドス ピアノ作品全集1

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回から6回シリーズで、グラナドスのピアノ作品全集を収録したアルバムをご紹介します。

グラナドスと言えば、ギターで有名ですが、そもそもはピアニストです。それは以前にも取り上げているかと思います。今回はさらにまた新たな音源を借りて聴いてみた、ということになります。

グラナドスは結構私が気に入っている作曲家の一人です。ギターよりもむしろピアノでこそ素晴らしい作品がたくさんあるように思います。第1集に収録されている「ゴイェスカス」もそんな一つだと言えるでしょう。

ゴヤ風の、という意味を持つゴイェスカス。ですが印象派の絵画からインスピレーションというよりは、むしろ絵画をきっかけにして創造力を膨らませていく、という作品であると言えます。

ja.wikipedia.org

どちらかと言えば、ベートーヴェンの「田園」に近いスタンスでの作品だと言えるでしょう。そんな作品をピアノで紡ぐのは、トーマス・ライナ。実に繊細に紡いでおり、そして時には力強いタッチで、情熱を表現し、己の感覚を自然に出しているかのようです。

単に絵画が素材になっているわけではない以上、演奏者にかなりの想像力が求められるのが、「ゴイェスカス」だと思います。その作品と自らに引き寄せ、そして手繰り寄せ、咀嚼して、演奏として呈示しているその様子は、幻想的でありつつ、一人の確固とした個人の表現を見ることでもあります。

グラナドスは、この組曲のオペラ版の初演のためアメリカから帰る途中に、ドイツ軍Uボートの雷撃に合い非業の最後を遂げますが、そんなグラナドスへの鎮魂の意味も、この演奏にはあるのかもなどと思っています。どんな作品を選んでもいいところのはずですが、まずこれを第1集として選んだのは単に有名な作品であるからだけだとは思えないんです。静謐なピアニズムからは、どこかさみし気なものも感じられ、それはグラナドスへの鎮魂を意味するのではないだろうか、と考えるのです。

それが正しいかはわかりません。ただ、繊細で感受性が強かったグラナドスへの、一人のピアニストの献身なのだとすれば、なんとなくわかる気もするのです・・・・・

 


聴いている音源
エンリケ・グラナドス作曲
ゴイェスカス 恋する若者たち
第1集
①1.愛の言葉
②2.窓辺の語らい
③3.燈し火のファンダンゴ
④4.嘆き、またはマハと夜鳴きうぐいす
第2集
⑤5.愛と死
⑥6.終曲〈幽霊のセレナード〉
補遺
⑦7.わら人形
トーマス・ライナ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

神奈川県立図書館所蔵CD:マルティヌー バレエ「王手」「音の反逆」

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回はマルティヌーが作曲したバレエ「王手」と「音の反逆」の二つを収録したアルバムをご紹介します。

私はマルチヌーと表記するのですが、この作品においてはマルティヌーというほうが適切なのかもしれません。なぜなら、決してチェコ風という作品ではないからです。この二つが作曲されたのは1930年代戦後。「王手」が1930年、そして「音の反逆」が1927年。ともにパリで成立し、「王手」は1980年初演、そして「音の反逆」は1928年に初演されたようです。

その時代のパリには、先進の音楽が集まっていました。シェーンベルクなど12音階、すでにすたれようとしていた新古典主義音楽。私が「20世紀音楽」と呼ぶ音楽運動が花盛り。マルティヌーもその影響を多分に受けています。マルティヌーは祖国に帰り音楽院の教授の職を請われていましたがそれを拒否。作曲家としてのキャリアを選びます。それはパリの先進の音楽の影響を多分に受けたからであると想像できましょう。

作品の詳しい説明は以下のブログに出ています。しかも同じ音源ですのでぜひとも読んでいただければと思います。

blog.livedoor.jp

私がマルチヌーと表記するのは、むしろチェコらしさを持ちつつも、音楽が20世紀音楽であるからということもあります。まあ、どちらでも表記はいいとは思いますが・・・・・

そしてこの二つの作品は、ともにコミックバレエと言ってもいいかと思います。「王手」はジャズ・バレエとも言われますが、チェスをバレエにしたものですし、「音の反逆」は当時の音楽をある意味パロったものです。ある意味お笑いの意味もある作品です。それをクラシックという芸術で表現する・・・・・その当時のパリとは、芸術家にとってはいかに魅力的な都市であったことか。

しかし、それを押しつぶしたのが、保守反動だったと言えます。ナチスドイツによるヨーロッパ各国への侵略、それに手を貸したドイツとフランスの保守たち。社会主義という名前を借りた極右反動・・・・・それによってマルティヌーの創作活動も影響を受け、結局アメリカへ移り住むことになります。それに伴い、芸術の中心もヨーロッパからアメリカ大陸へと移っていったのでした。それは大国と言われる国がヨーロッパ列強からアメリカへと移る時代に重なります。

その意味では、マルティヌーという表記のほうが正しいのかもしれません。ただ、借りてきたCDにはマルチヌーという表記がされていたように思います。それはおそらくレーベルがスプラフォンだったからではなかったかと記憶しています。チェコの有名レーベル、スプラフォン。マルティヌーの作品も数多く出していますが、祖国の作曲家という意味合いが強いのでしょう。このアルバムもビエロフラーヴェク指揮プラハ交響楽団で、ロケーションもプラハの芸術家の家ですし。

ビェロフラーヴェクはプラハ交響楽団とのコンビのほうがのびのびタクトを振っているような気がします。作品が持つお笑いの部分を存分に表現し、諧謔性はもう面白いのなんのって!マルティヌーが表現したいことを存分に演奏で示しているように思います。とはいえ、かつてはナチスに協力したチェコ。それを嫌ってパリやアメリカでの創作活動を選んだマルティヌー。その申し訳なさを思いっきりな表現で贖罪しているかのようにも聴こえます。ごめんなさい、私たちは今ではあなたの作品を楽しんでいます、というような・・・・・

今後も、スプラフォンからマルティヌー作品の録音が出ることを期待したいと思います。できれば、ハイレゾで出てくれると、うれしいですね。

 


聴いている音源
ボフスラフ・マルチヌー作曲
バレエ「王手」H.186(A.クーロワの台本による1幕のバレエ)
バレエ「音の反逆」H.151(1幕のバレエ・コメディ)
ウラディーミル・オレクサ(語り)
カテジナ・カフリーコヴァ―(アルト)
イルジー・ビエロフラーヴェク指揮
プラハ交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。