かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:タッシェン・フィルハーモニーによるベートーヴェン交響曲全集5

今月のお買いもの、令和2(2020)年7月に購入したものをご紹介しています。シリーズで取り上げているタッシェンフィルハーモニーベートーヴェン交響曲全集、今回はその第5回目です。

今回は第7番と第8番。DLですから別にどう取り上げてもいいのですが、一応CDで収録されている内容で分割していますが、番号順なのでこのようになっています。

さて、その2曲ですが、第7番は「リズムの権化」とも言われる作品で、そのリズム感が強調されることも多い作品です。ところがこの演奏ではあえてそのリズム感を強調せず、徹底的に疾走します。

それは第8番でも同じ。疾走感がとてもさわやかで、メトロノームを採用して作曲したともいわれる第2楽章が、むしろその疾走の中で際立っており、引き締まったものになっています。

もちろん、やたらめったらテンポをあげればいいってものではありませんが、とはいえ、この演奏では急楽章でテンポアップすることによって全体的に引き締まった演奏になっていることは確かで、作品に新たな生命が吹き込まれたかのようです。

もっと言えば、こういう優れた効果がしっかり感じられて、ついほとんど弦楽四重奏に近い弦5部だなんて忘れてしまうんです。不思議なことに、この全集を第1番からここまで順番に聴いてくると、最初の第1番よりも第8番と来るに従って室内楽程度の編成であるということが分からなくなってくるんです。

ベートーヴェンは古典派交響曲を完成させたと言われますし、また新たなことをどんどん行った改革者とも言われますが、意外にもタッシェン・フィルの演奏で聴くと、室内楽程度でも番号を経るに従って気にならなくなるという不思議な現象が起こっています。これは私はベートーヴェンの円熟を示すものではないかと思います。もちろん、指揮者シュタンゲルの編曲も素晴らしいのでしょうが・・・・・

ほとんど編曲を感じることは演奏からはありません。むしろ全く手を付けていないんじゃないかという気すらします。そんな中で聴くこの演奏は、優れた校訂でもあるもかもしれません。こういう表現もあると目からうろこです。

 


聴いているハイレゾ
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第7番イ長調作品92
交響曲第8番ヘ長調作品93
ペーター・シュタンゲル指揮
タッシェンフィルハーモニー
(Naxos Edition Taschenphilharmonie)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

神奈川県立図書館所蔵CD:スクリャービン ピアノ・ソナタ全集2

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、3回シリーズで取り上げているスクリャービンのピアノ・ソナタ全集、今回は第2週を取り上げます。

第2集には、第6番から第10番までが収録されています。第1曲目の第6番を聴いたとたん、第1集の第5番までとは世界が違うことに気が付きます。

もちろん、様式的には、第5番からすでに変化は起きています。しかしこう全体の中で聴きますと、第5番はまだそれほどでもなく、この第6番から明らかに和声的変化が起きており、ほぼ「法悦の詩」のような世界が提示されます。

その神秘的な和声を、小山女史は味わって、半ば楽しそうに弾いているのがわかるんです。いやあ、これはハイレゾで聴きたいくらい!

特に、繊細なタッチが、ひとつの「歌」となっているため、作曲家や演奏する小山女史それぞれの「魂」が混然一体となって、スピーカー越しに聴こえてきて、自分を包み込む感覚に襲われます。ウィーン・フィルマーラーのような、音場に包み込まれる感覚というか。

もちろん、私の家は安アパートなので、それだけのオーディオを構築することなどできず、PCにハイレゾ対応のスピーカーをつけているだけですが、それでも音に包み込まれるという感覚になるのは素晴らしくそして楽しい瞬間です。

和声としてはかなり神秘主義ですが、様式的にはソナタ形式に留まり、新しい様式を冒険しているわけではないんですが、それでもその生み出している世界は、とても心地よく、思想や想像を呼び起こさせます。これは確かに、ベートーヴェン以来の創造家が出現したと言っても過言ではないでしょう。

そんな作曲家のピアニズムを、音に浸りながらもまた己を保持しつつ味わう小山女史。そのピアノが奏でる、神秘的な世界と歌・・・・・・いやあ、もうこのままずっとPCの前にいたい!

・・・・・いえいえ、出勤のお時間です。いや~ん、もっと楽しませてほしい、味わわせてほしい!

・・・・・帰ってきたら、また楽しむことにしましょう。いっそ、スマホに入れておいてもいいかもと・・・・・そんな時間ないか。

 


聴いている音源
アレクサンドル・スクリャービン作曲
ピアノ・ソナタ第6番作品62
ピアノ・ソナタ第7番作品64「白ミサ」
ピアノ・ソナタ第8番作品66
ピアノ・そなた第9番作品68「黒ミサ」
ピアノ・ソナタ第10番作品70
小山実稚恵(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

神奈川県立図書館所蔵CD:スクリャービン ピアノ・ソナタ全集1

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回から3回に渡りまして、スクリャービンのピアノ・ソナタ全集をとりあげます。

私がスクリャービンに触れたのは、某SNSでの鑑賞会。「法悦の詩」でしたが、スクリャービンと言えば圧倒的にピアノ曲なのですよね。

そいいうこともあって、いずれはスクリャービンピアノ曲を俯瞰できればなあとずっと思っており、県立図書館に行ったときにようやく実現できた、ということになります。今なら府中市立図書館にあるとは思いますが・・・・・

しかも、このアルバムは、たとえばウィキあたりに出てくるそうそうたるピアニストたちではなく、日本の小山実稚恵。ロケーションもこの第1集は彩の国さいたま劇場と日本国内。日本人による日本におけるアルバム、ということで借りてきた経緯があります。

ただそれだけで選択したこのアルバム、まさかこんな海外との交流を、命を守るためとはいえ、断絶せざるを得ない時代に聴くことになろうとは、思いもよりませんでした。海外アーティストが来れなければ、国内アーティストで演奏を聴く以外方法がないわけですから・・・・・

さて、その第1集。ピアノ・ソナタ第1番から第5番までが収録されており、スクリャービンのピアノ・ソナタの変遷が少し見えている感じの選曲となっています。スクリャービンの全集において、番号順というのはとても重要だと思います。おそらく、法悦の詩のイメージが強いと、第1番などは腰抜かすと思います。あまりにも古典的であることに・・・・・

とはいえ、和声的には当時の後期ロマン派だったり、国民楽派だったりの影響を強く受けていますから、当然古典的というのは「法悦の詩」の神秘和声に比べて、ということにほかなりません。魅力的なリズムと和声、そしてその二つが作り出す魅惑的な世界。一気にスクリャービンの芸術に引き込まれていきます。

小山女史のピアノは、かなり激しいリズムの中でも歌うことをあきらめず、ゆったりとした部分では思いっきり歌う点がとても魅力的。スクリャービンの「心の声」を、自分が代弁して届けるんだというような意思すら感じます。いや、「私はこのスクリャービンの心に声に共感して、こんな気持ちを持ってるの!」という、女史の魂の叫びすら聴こえてきます。

はじめはおっかなびっくりだったんです、じつは私。えースクリャービンのピアノ・ソナタ?どれだけ〇ッチなの?とすら。しかし実際に小山女史の演奏を聴けば、なんと魅力的なのだろう!と。こういうのを食わず嫌いと言います。いやあ、こういう時期だからこそ、たとえばスクリャービンのピアノ・ソナタとかハイレゾ相当で配信とかないでしょうかねえ・・・・・

特に、スクリャービンベートーヴェンのピアノ・ソナタを敬愛しているさまがこの第1集では見え隠れしていますが、それは単にまねるというのではなく、咀嚼して自分の言葉で紡ぐというもの(例えば、第2番「幻想ソナチネ」)。その美しさと言ったら・・・・・小山女史の、その美しさへの憧憬、そしてリスペクトも十分聴こえ、私自身もスクリャービンという作曲家の世界にどっぷりつかっています。こういう演奏、いいですね~。

第2集以降も本当に楽しみです。

 


アレクサンドル・スクリャービン作曲
ピアノ・ソナタ第1番ヘ短調作品6
ピアノ・ソナタ第2番嬰ト短調作品19「幻想ソナチネ
ピアノ・ソナタ第3番嬰ヘ短調作品23
ピアノ・ソナタ第4番ヘ長調作品30
ピアノ・ソナタ第5番作品53
小山実稚恵(ピアノ)

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東京の図書館から~小金井市立図書館~:マゼールとウィーン・フィルによるマーラー交響曲全集9

東京の図書館から、シリーズで取り上げている小金井市立図書館のライブラリである、マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるマーラー交響曲全集、ようやく最後の第9集のご紹介となりました。

番号順に来ているこの全集、第9集は第9番となるわけですが、カップリングとして第10番も収録されています。二つを連続して聴くと、ある意味不思議な感覚に襲われます。それは、完全と不完全という二つが並ぶことによる、まさにモザイク模様。

ウィキの以下第9番の説明を借りれば、「後の1960年代後半から1970年代にかけて流行したコラージュ音楽の発想」がこのアルバムそのままのように感じられるのです。

ja.wikipedia.org

特に、第10番はどこか支離滅裂に感じられます。もちろん演奏はウィーン・フィルですからアンサンブルが支離滅裂だということではありません。ウィーン・フィルの豊潤なサウンドで聴くと、支離滅裂に聴こえる、ということなのです。

それは、第9番の時より、第10番作曲の時のほうがマーラーの状態がよくないということを如実に表しているようにも感じられます。

ja.wikipedia.org

このアルバムでは、第1楽章のみが演奏されています。それはほかの楽章はスケッチだけの状態だからということだろうとは思います。それは置いといて、このほぼ完成された第1楽章だけを見ても、美しいのだけれども、支離滅裂という感覚が否めません。ただ、それがマーラーの目指した芸術だったのかもしれませんし、あとで手を加えるつもりだったのかもしれません。

それは第9番でも指摘されている点で、この二つはマーラーが生前自分で指揮できていない作品です。第10番は死去によるものですから当然として、第9番も生前指揮できませんでした(1912年、ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィル)。そんな当時の状況が、この二つの作品にどこかしっちゃかめっちゃかな部分を感じる原因の一つなのだと思います。

そんなネガティヴな印象が、ウィーン・フィルだからこそしっかりと感じられますし、まただからと言ってそれが必ずしもいやではない感じがさすがウィーン・フィルだと思います。マゼールも奇をてらうことなく、オケを最大限鳴らすことに傾注しており、いい効果をあげています。

そう、どこか苦しみだとか、叫びだとかも感じられ、うわー、となる一方、響きがどこまでも美しいため、解説等を読めば、ああなるほどと納得もできる説得力。世界最高峰ウィーン・フィルだからこそできる技でしょう。こういう演奏こそ、プロだよなあと思います。一つ、この全集を聴いてマーラーの芸術に対する理解が深まった気がします。

 


聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
交響曲第9番ニ長調
交響曲第10番ヘ短調より アンダンテ~アダージョ
ロリン・マゼール指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

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東京の図書館から~小金井市立図書館~:マゼールとウィーン・フィルによるマーラー交響曲全集8

東京の図書館から、シリーズで取り上げている小金井市立図書館のライブラリである、マゼール指揮ウィーン・フィルによるマーラー交響曲全集の、今回は第8集をとりあげます。

番号順なので、いよいよ第8番ということになります。初演で1000人近く出演したことから「1000人の交響曲」とも言われるこの作品、第1楽章が最も有名ですけれども、このアルバムを0聴くと、それは表面的な理解に過ぎないなあと感じさせられます。

魅力的なのは、第1楽章(というか、この作品では第1部というべきか)だけではなく、第2楽章もである、ということ気づかされるのです。ふと見てみれば、演奏時間は第2楽章は1時間越え。対する第1楽章は25分ほど。それぞれ長いですけれども、どちらがマーラーが強調したいことであるかは、一目瞭然であるわけです。25分という長い導入部があって、1時間の「カンタータ」があるというような様式なのだ、ということです。

このアルバムの演奏は、その解釈で際立っています。1時間30分近くになるこの大曲が、ながらで聴いていると実にあっという間に過ぎ去っていきます。さらに真剣に聴けばその濃ゆいこと!いやあ、その濃さは、マーラーが作品で表現しようとした「世界」故でしょうし、その「世界」をしっかりと掬い取っている演奏もまた素晴らしい!

もちろん、史実からすれば、この第8番がウィーンで初演される最後の作品であった、ということは言えます。ですが、当時ウィーン・フィルの公務員としての姿である国立歌劇場オケ(それはいまでもですが)としてはマーラーと疎遠になったとはいえ、「大作曲家の初演を演奏したオケ」としての自負と誇りは持ち続けてきたウィーン・フィル。自分たちが持つ「固有のサウンド」を存分に使い、歌うことで、交響曲第8番という「壮大な世界」は二つの部分があって一つであるということを謳歌しているように思います。

こういう演奏こそ、私がマーラーで待っていたものです。単に素晴らしいと感じるだけではなく、そこに私が気付かなかったことを気づかせてくれる、プロとしての表現。これこそ、待ち望んだものです。

第1楽章など、メディアなどでさんざん流れていたこともありますが、第2楽章が流れることはめったにないでしょう。それだけ押し出しが第1楽章に対して弱いからですが、しかし、よく聴けば実に歌う部分がたくさんあるのは第2楽章ですし、そのヴォリュームも多いことを、演奏で気付かせてくれる名演。メディアで聴くなら、単に音に包まれるだけではなく、説得力のある演奏がやはりほしいなあと思います。それはオケの自己主張でもありますしね・・・・・

こういう演奏にたくさん触れることもまた、緊急事態宣言下では大切なことなのかもしれません。

 


聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲
シャロン・スウィート(ソプラノⅠ、栄光の聖母/いと罪深き女)
パメラ・コバーン(ソプラノⅡ、贖罪の女の一人)
フローレンス・クイヴァ―(アルトⅠ、サマリアの女)
ブリギッテ・ファスベンダー(アルトⅡ、エジプトのマリア)
リチャード・リーチ(テノール、マリア崇拝の博士)
ジークムント・ニムスゲルン(バリトン、法悦の教父)
サイモン・エステス(バス、瞑想の教父)
ヴォルフラム・コロソイス(オルガン)
ウィーン国立歌劇場合唱団
オーストリア放送合唱団
アルノルト・シェーンベルク合唱団
ウィーン少年合唱団
ロリン・マゼール指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:マゼールとウィーン・フィルによるマーラー交響曲全集7

東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリをご紹介しています。シリーズで取り上げているマゼール指揮ウィーン・フィルによるマーラー交響曲全集、今回は第7集をとりあげます。収録曲は第7番。

「夜の歌」と呼ばれる作品ですが、それが全体を表すものではないのはよく知られていることです。が、「夜の歌というのはどういう事なのだろうか?」と考えさせる作品だと思います。

特にこのマゼールのタクトによるウィーン・フィルの演奏を聴きますと、どうしてもそういった思いが強くなるから不思議です。第1楽章など、歌というよりは咆哮に近いですし・・・・・

はっきりと「夜の歌」とされている二つの楽章以外は、特に夜の歌とされているわけではないのですが、それでもどこかに確かに夜更けが存在するように聴こえるのがこの作品の不思議なところだと思いますが、それはウィーン・フィルのなせる業ではないとは思いますが、自然と浮かび上がるように聴こえるのは確かで、そのあたりはウィーン・フィルだからなのかもしれません。

そもそも、ウィーン・フィルブラームスはもちろん、マーラー交響曲の初演もいくつか携わったオケである、ということは念頭に置く必要があるのではと思います。昨年秋、新型コロナウイルス感染拡大の最中に来日したときの、「ウィーン・フィルらしいサウンドを作るという責任」という言葉は、決してハッタリではないでしょう。

その言葉から考えれば、ウィーン・フィルが奏でるマーラー交響曲というのは、初演の時のサウンド、あるいは初演の時に理想としたサウンドを紡ぎ続ける、ということを意味します。つまり、私たちの演奏は、マーラーそのものだ、という宣言です。

宣言通りにするということは並大抵ではありません。つい、マーラー交響曲を考えるとき、いろんな演奏を確かに聴こうとしますし、そうじゃないと偏るのは確かですが、そもそもウィーン・フィルマーラーのそれぞれの交響曲の初演をしてきただけのオケなのだ、ということを踏まえれば、極端な話、ウィーン・フィルの演奏を聴けば80%のことは言えるのではないでしょうか。

その視点でこの演奏を聴きますと、全体的にウィーン・フィルは歌っています。歌っているからこそ、「夜の歌」という標題が必ずしも全体を示すわけではないのに、やはり「夜の歌」を全体から感じてしまうというのは、必然なのかもしれないと、思うのです。

 


聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
交響曲第7番ホ短調「夜の歌」
ロリン・マゼール指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

今月のお買いもの:タッシェン・フィルハーモニーによるベートーヴェン交響曲全集4

今月のお買いもの、令和2年7月に購入したものをご紹介しています。シリーズで取り上げているタッシェンフィルハーモニーによるベートーヴェン交響曲全集の第4回です。

今回は第6番「田園」を取り上げるのですが、いきなり冒頭からちょっと聞きなれないサウンドなのですが、かといって何か指揮者シュタンゲルが編曲したように聴こえます。しかし、ほかの演奏をよく聴いてみると、しっかりその和声は入っていることに気づきます。

編曲っちゃあ編曲だとは思いますが、シュタンゲルの編曲は、「取捨選択」であることが、この「田園」ではっきりとわかるんです。決してリストのように「聴こえるように音符を変える」という「トランスクリプション」ではありません。ここに、シュタンゲルとタッシェンフィルハーモニーの誠実さが見えてきます。

その、一見すると物足りないように聴こえる編曲は、少なくとも元の音を変えているわけではないので、全く気にならないのです。むしろ、少ない楽器によるしっかりとしたアンサンブルを紡ぎたいという団員の熱意すら伝わってきて、こみあがってくるものすらあります。

こういう演奏、いいですね~。リズムも最高だし、ベートーヴェンが楽譜に込めた「想い」が、演奏家たちを通じて伝わってくるようにすら感じます。

「田園」作曲当時のベートーヴェンは、あの「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた直後です。いくつか伝わるエピソードを総合すれば、つい心に嵐が吹きすさぶベートーヴェンを慰めたものの一つが、牧歌的な風景であったとはいえるでしょう。精神医療が静かな場所を選ぶのは一つには世間の偏見がありますが、一方で静かな環境も必要だからである点にあります。

ベートーヴェンを支えたもの、それは仲間とこの「静かな環境」だったといえるでしょう。実際にウィーンがフランス軍に包囲され、占領された時、ベートーヴェンの心には嵐が吹きすさんでいたことがわかるエピソードには困らないくらいです。しかもその「嵐」は結局、甥カールを自殺にまで追い込むわけなので、かつて対人援助職だった私からすれば、ナポレオンと周辺諸国との戦いが、ベートーヴェンの魂をいかにむしばんでいったのかは経験的に理解できます。

だからこそ、美しい牧歌的な風景は、ベートーヴェンにとって何よりの題材で、賛美する対象だったと言えます。だからこそ、「田園」は誕生したと言えるわけなのですが、そこの理解とリスペクトが、この演奏には詰まっているんです。だからこそ、編成的に室内楽に管楽器と打楽器が入っただけに近い編成という、かなり小さな編成であるにも関わらず、まるでベートーヴェンの「魂」が伝わってくるかのような演奏になるのだろうと思います。

こういう演奏を新型コロナウイルス感染拡大というときに出会えたのは、本当に不思議な縁だと思います。

 


聴いているハイレゾ
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
ペーター・シュタンゲル指揮
タッシェンフィルハーモニー
(Naxos Edition Taschenphilharmonie)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。